被造物の自由とは、選択の自由を意味するもの

私という意識は一つの環境、とくに社会的な複数の他の個をも含む環境を背景としてはじめてはっきりするのです。・・・クリスチャンである私たちは三位一体の教義から、永遠の昔以来神御自身のうちにおいて人間の社会に似たものが存在したということを学んでいます。・・・神のうちにこそ、もろもろの世界に先立って愛の具体的な相互作用が存在し、そこから引き出されて被造物に達しているという意味で、「神は愛である」ということを学ぶのです。
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被造物の自由とは、選択の自由を意味するものに違いありません。選択とは、いくつかの選択肢の存在を暗示します。環境をもたない被造物には選択の余地はないでしょう。とすると、自由も自己意識と同じように(実際のところ、両者は同じものなのかもしれませんが)、やはり自己ならざる他者の存在を要請するわけです。

『影の国に別れを告げて―C.S.ルイスの一日一章』、中村妙子 訳、357頁

2019年9月11日(水)

自己意識、すなわち私という意識は、他者が存在するところにおいて明らかになります。また自由は選択の自由であって、それは複数の選択肢があってはじめて成り立ちます。この世界にあって、私が私として私らしく自由に生きるためには、環境が必要なのです。自分とは違う存在、時に自分に逆らう存在の中にあって、はじめて自分を確かにし、自由に生きることができるのです。

「食事が終わると、イエスはシモン・ペトロに、『ヨハネの子シモン、この人たち以上にわたしを愛しているか』と言われた。ペトロが、『はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです』と言うと、イエスは、『わたしの小羊を飼いなさい』と言われた。」(ヨハネ21・15)

「わたしたちが見、また聞いたことを、あなたがたにも伝えるのは、あなたがたもわたしたちとの交わりを持つようになるためです。わたしたちの交わりは、御父と御子イエス・キリストとの交わりです。」(第1ヨハネ1・3)