宇宙の物質があらゆる瞬間において、ある社会のすべての成員にとってひとしく好都合に、かつ快適に按配されているということは、個人の場合よりなおいっそう、ありえぬことでしょう。・・・小石一つにしても、もしもそれが私の望む場所にあるとしたら、偶然の一致以外には、あなたの望む場所にはないわけです。このこと自体はけっして悪ではありません。それどころか、愛情、おおらかさ、つつましさなどの具体的現れである礼節、敬意、非利己的行為が発揮される機会が生じます。けれども確かにそれは大きな悪に対しても道を開くものです。すなわち競争心と敬意が生れます。
人間の魂が自由であるとすれば、礼節によらず、競争によって問題を解決しようとするのを阻むわけにはいきません。・・・およそ人間が戦うときにはたとえ一方に正しい名分がないとしても、武器、戦術、人数において上回っていれば、概して勝利を博することになるのです。
『影の国に別れを告げて―C.S.ルイスの一日一章』、中村妙子 訳、358-359頁
2019年9月12日(木)
明日は晴れるといいな、と願っている人と、その横で明日は雨になってほしいと願う人がいるとすれば、神さまはどちらの願いを聞かれるのでしょう。『C・S・ルイス宗教著作集3』も同じ訳者ですが、少し文章に違いがあり、読み比べるとより深く意味を探ることできます。上記の個所の少し前にはこんな文章がありました。
「もしも物質が一定の性質をもち、不変の法則に従うとしたら、ある個人のさまざまな願いにとって、物のすべての状態がひとしく好都合だということはないでしょう。それはまた、彼が体と呼ぶ物質の集合体にとっても同じであって、物質のすべての状態が体にひとしく益を及ぼすということもないと思われるのです。たそてばある距離においては火が人間の体を心地よく暖めるとしても、その距離が縮められるとき、それは体にとって破壊的に働くでしょう。」(31頁)
自分にとって、またその時の自分にとって好都合でも他の人、他の場合にはそうではないことがあるのです。このこと自体は良いことでも悪いことでもありません。
またこの世界にはさまざまな「違い」があります。生活環境、ジェンダー、経済状態、健康状態、人種、などなど。それら自体に悪がある場合もあるかもしれませんが、そうでない場合もあるでしょう。悪である場合はその悪を正すことに努力しなければなりませんが、悪ではない場合には、その違いは、お互いを分かり合える機会となるでしょう。
明日は晴れるといいな、と願っていてその通りになって感謝している人は、無邪気に喜んでいるのには罪はないのかもしれませんが、雨になったらいいと考えていた人の気持や生活、人生を思い図ることがいいのではないでしょうか。
違いは礼節をはたらかせる機会である、とルイスは語るのかもしれません。人間の自由意志は、礼節ではなく競走や戦いでその違いを乗り越えようとしてしまいます。競争や戦いでは、単純に条件の善いものが勝利するので、そこでは善や悪はどうでもよいこととなり結果的にみんなに善い社会は築けないのではないでしょうか。
「愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。」(第1コリント13・4-5)