神はそれぞれの人間の魂を、それぞれの方法で救って下さる

神はそれぞれの人間の魂を、それぞれの方法で救って下さるのではないでしょうか。ただちに回心し、永遠の平安を勝ち得るというのが救われた人々に共通する経験であるかのように言うのは、私にはひどく危険なことのように思われます。ある者はこれによって傲慢となり、ある者は逆に絶望に追いこまれるでしょう。

『影の国に別れを告げて―C.S.ルイスの一日一章』、中村妙子 訳、332-333頁

2019年8月24日(土)

今日は「聖バルトロマイ使徒」の日ということですが、このバルトロマイはヨハネの福音書1章に登場するナタナエルのことである、といわれます。ナタナエルは、いちじくの木の下にいるのを見た、とイエスさまにいわれた人物です。不思議な言葉ですが、いちじくの木の下にいるということは、世界の救いをひたすら待ち望んでいるというような意味と聞いたことがあります。
信仰を求めて学ぶ人のことを「求道者」といいます。「ぐどうしゃ」と読まずに「きゅうどうしゃ」と読みます。英語ではseeker(シーカー)というそうです。
福音派の教会には「ただちに回心」すること、つまり瞬間的な回心を強調する教会が多いのですが、実際はそんなことではないというのが聖書の語るところでしょう。ルイスのいうように、「ただちに回心」が強調されると、その通りの道程を歩んだものは傲慢になり、そうでないものは絶望することになります。そうであるとすると「ただちに回心」が強調される教会は結果的に傲慢な人びとの集まる教会になる、ということでしょうか。

「ナタナエルが、『どうしてわたしを知っておられるのですか』と言うと、イエスは答えて、『わたしは、あなたがフィリポから話しかけられる前に、いちじくの木の下にいるのを見た』と言われた。」(ヨハネ1・48)