本来的に互いに異なりながら相補う関係

メンバーシップという言葉の起源はもともとキリスト教にあるのですが、現世がそれを取りこんで、本来の意味をまったく除き去ってしまったのです。
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メンバー(ギリシャ語「メレー」)という言葉によって聖パウロは、私たちなら(有機体の)器官と呼ぶであろうもの、すなわち本来的に互いに異なりながら相補う関係にあるもの。構成と機能において違うだけでなく、その品格においても異なるものを意味していたのです。
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一人のメンバーを取去れば、単に家族の数が減るばかりでなく家庭の構成のものが損なわれることになります。その統合は、似ていないもの同士のそれ、ほとんど同一の標準で計りえない同士のそれなのです。

『影の国に別れを告げて―C.S.ルイスの一日一章』、中村妙子 訳、323-324頁

2019年8月18日(日)

教会の交わりを考えるときには、身体や家庭を例にして考えてみるとよいのだと思います。ひとりの人がいなくなることが、全体にどのように影響を与えるのか。かけがえのない存在であったのか、それとも別の人で替わりとなる存在だったのか。

かけがえのない存在である、ということは、人を同じ基準でとらえないということが大切なのだと思います。
上記の割愛した部分に「彼らはほかの者で置き換えることができません」とあるのですが、西村訳では「彼らには互換性がありません」と訳されています。
現代は互換性がむしろ必要とされるところがありますが、そういうところにばかり身を置いていると、人間として生きることが難しくなるのだと思います。自分という人間に互換性のないことが実感できる場所が私たちには必要なのだと思います。

「賜物にはいろいろありますが、それをお与えになるのは同じ霊です。務めにはいろいろありますが、それをお与えになるのは同じ主です。働きにはいろいろありますが、すべての場合にすべてのことをなさるのは同じ神です。一人一人に“霊”の働きが現れるのは、全体の益となるためです。」(第1コリント12・4-7)