合理的ということから言えば、イギリスという国家にとっても君主制を撤廃してしまう方がはるかに合理的でしょう。しかしそうすることによって、私たちにとっても最も重要なある要素が取り除かれてしまうとしたら? 君主制が公的生活の不可欠な要素―忠誠心、献身、階層制、威風、儀式、継続―など、経済面に重点を置いている現代政治の乾燥地帯を潤す、かぼそい水の流れを運ぶ水路だとしたらどうでしょう?
『影の国に別れを告げて―C.S.ルイスの一日一章』、中村妙子 訳、288-289頁
2019年7月24日(水)
私たちの主イエスさまを通して、私たちの救い主である唯一の神さまに、栄光、威厳、力、権威が、永遠にあるように、との祈りがユダの手紙のおわりにささげられています。威厳が神さまにあるようにと祈り願うためには、そもそも威厳とはどういったものであるのか、ということを私たちが共通理解していなければならないでしょう。いったい威厳というものを人間はどこで学ぶのでしょうか。
自分という人間は罪びとであり、その罪びとでしかない私を、無限の愛で愛していてい下さる神さまの愛のもったいなさ、を学ぶために、神さまの威厳を学ばなければなりません。おそらく幼い時から、祭りであるとか、仏壇や神棚の前に座ることであるとか、学び舎での入学式や卒業式、などなど、そういうところで培ってきたことではないか、と想像します。君主制は国全体がそれを培うところなのでしょう。ですから日本においては、現状においては、天皇制はとても大切なものなのだといえるでしょう。
キリスト者は、それは礼拝において学び培います。しかし礼拝で緊張感なく居眠るようなことであってはそれも学び培うことはできないでしょう。
日曜日の午後に兼牧をさせていただいている彦根の教会は、少ない人数ですが、あるいは少ない人数だからこそ、健やかな緊張感をもって神さまの威厳を学ぼうとされる方々の集う礼拝が守られていて、説教者にとってはとても恵ま励まされる教会です。つたない私の説教にも一所懸命耳を傾けていてくださいます。毎回伺うのを楽しみにしています。
「あなたがたを罪に陥らないように守り、また、喜びにあふれて非のうちどころのない者として、栄光に輝く御前に立たせることができる方、わたしたちの救い主である唯一の神に、わたしたちの主イエス・キリストを通して、栄光、威厳、力、権威が永遠の昔から、今も、永遠にいつまでもありますように、アーメン。」(ユダ24~25)