私たちイギリス人が古来の儀式的な君主制を手放すことなしに法的な民主主義(経済面での民主主義はまだまだですが)にかなりの程度到達したのは喜ばしいことです。それは不平等に対する人間の欲求を満足させるとともに、薬は食物ではないということをたえず思い起させる契機が私たちの日常生活のまっただなかにあることを意味します。ですから、君主制に対して国民がどう反応するかは民主主義の一種の試金石です。
『影の国に別れを告げて―C.S.ルイスの一日一章』、中村妙子 訳、287-288頁
2019年7月23日(火)
王様のいる国と王様のいない共和制のような国とどちらが安定しているのか、というと王様のいる国のほうが、案外安定していて、国民の幸せ度も高いのではないか、といったことを聞いたことがあります。
王様のいないところ、すなわち一つの基準のない所での民主主義というのは、結局のところ罪びとである人間の思いのままが追求されることになるでしょう。人間の思いはそれぞれに違いがありますから、とたんに混乱が起こるでしょう。
ですから国家はもとよりどのような集団であっても自分の思いを超えた基準があるかないかは大切なことなのだと思います。
少し話しはずれますが、私は日本人がみんなキリスト者になって、罪の奴隷からの解放と永遠のいのち、天国への希望を持つことができれば、よいなあ、と考えているものです。しかしそうなると、神社仏閣、天皇制、各季節の祭り、風習、などなど、そういったものをすべてなくしてしまうことになるのでしょうか。ファンダメンタルな宣教師はおそらくそのように願っているでしょう。しかしそうなると、いわゆる「日本」というものが解体されてしまうのではないでしょうか。それで果たして安定した国家というものが成り立つのでしょうか。
イギリスという国が、民主主義の中にあって、かつらをかぶっている議員や裁判官の姿があり、王国であることにおけるさまざまな儀式があり、という姿を見るにつけ、またアメリカという歴史のない国が、必死になって伝統的権威を身につけようと努力している姿を見るにつけ、日本においてすべての人がイエスさまを信じるということは、どのような姿になるのだろうかということを大切に考えなければならないのではないかと、思うのですが。
「そこで、まず第一に勧めます。願いと祈りと執り成しと感謝とをすべての人々のためにささげなさい。王たちやすべての高官のためにもささげなさい。わたしたちが常に信心と品位を保ち、平穏で落ち着いた生活を送るためです。これは、わたしたちの救い主である神の御前に良いことであり、喜ばれることです。神は、すべての人々が救われて真理を知るようになることを望んでおられます。」(第1テモテ2・1-4)