かたくなな心を砕くのは、言うはやすく、行うのはきわめてむずかしいたぐいのことではないでしょうか。石膏の容器がこわされなくては、馥郁たる香りはあたりに漂いません。容器のなかに納まっているかぎり、中味は汚水と変りないのです。
『影の国に別れを告げて―C.S.ルイスの一日一章』、中村妙子 訳、287頁
2019年7月22日(月)
今日はマグダラのマリアの日ですので、ルイスのこの本もマグダラのマリアにまつわる文章が引用されています。
香油を注いだ「一人の罪深い女」(ルカ7章37節ほか)と「マグダラのマリア」が同一人物であるという人もいれば、そうではないという人もいます。いずれでもよいような気がします。七つの霊を追い出していただいたというマグダラのマリアは十分に罪深い女ですし、もしかすると罪深い女がイエスさまのところに来て香油の入った壺を壊し、薫り高い香油を注ぐということは、いくつも行われたのかもしれません。もちろんそうでないかもしれません。
いずれにせよ、そこに記されていることとして、大切な石膏の壺を壊すということが、かたくなな心を現わしているのだ、というルイスの理解に心を寄せてみたいと思います。薫り高い香油はこの場合「福音」ということでしょうか。それとも、神さまに造っていただいた本来の自分ということでしょうか。
自分のかたくなな心が壊されるということは、極めて難しいことです。しかし自分のかたくなな心が壊されるならば、新しい何かがはじまるのです。人生のむなしさの原因を自分の外側に求めているうちは何の解決もありません。自分のかたくなな心、そのかたくなさこそ原因なのです。
「イエスがベタニアでらい病の人シモンの家にいて、食事の席に着いておられたとき、一人の女が、純粋で非常に高価なナルドの香油の入った石膏の壺を持って来て、それを壊し、香油をイエスの頭に注ぎかけた。」(マルコ14・3)