結婚が確実に危機に瀕し、ときに破綻するのは、その二人が恋愛(エロス)を偶像視している場合です。・・・彼は洗礼式における名付け親のように、宣言をします。しかしその誓いを守るのは私たちなのです。毎日の生活が、恋愛(エロス)がかつて瞥見させてくれた光景とできるかぎり一致するように努力しなければならないのは誰でもない。私たち自身です。
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キリストを信ずる人々は、結婚についてのそうした心構えはいささかも気負った響きをもっていないが、それでいてそれは謙遜と愛と神の恵みによらなければけっして達成できないことを、またそうした心構えこそ、ある特別な角度から見たクリスチャンの生活そのものであることを知っているのです。『影の国に別れを告げて―C.S.ルイスの一日一章』、中村妙子 訳、263-264頁
2019年7月4日(木)
恋愛(エロス)の愛を偶像視してはいけないのです。純粋な愛とは、日々の努力の中にこそあるのです。忍耐と努力こそ純粋な愛に生きる道なのです。本当の愛が大切です。
ところで、聖書についての知識を、愛よりも優先するとすればそれはキリスト教信仰ではなく、イエスさまを信じているとは言えません。霊的な体験や経験を、愛よりも優先するならば、それもキリスト教信仰ではなくイエスさまを信じているとは言えません。預言も知識も霊的な体験も「一部分」なのです。私たちはその一部分しか知らないということをわきまえていなければなりません。
「論語読みの論語知らず」という言葉がありますが、聖書のあちらこちらを引用してなにがしかの主張をし、意見の異なる人を非難することがあるとすれば、確かに聖書を読んではいるのですが、残念ながらキリスト者であるとはいえないでしょう。本当に聖書を読むということができていないのです。自分の主張という偶像礼拝をしているだけなのです。
「愛は決して滅びない。預言は廃れ、異言はやみ、知識は廃れよう、わたしたちの知識は一部分、預言も一部分だから。」(第1コリント13・8,9)