恋愛(エロス)をひたすら持ち上げてこれに無条件に服従するとき、それは悪魔と化します

恋愛(エロス)をひたすら持ち上げてこれに無条件に服従するとき、それは悪魔と化します。
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人の非難を招くような行為について愛人たちが「私たちは愛しあっていたのです」と抗弁するとき、その語調に注意して下さい。「怖かったからです」、あるいは「腹が立ったからです」と告白するときとはまるで違っているでしょう。・・・その告白はほとんど誇らしげに、いえ、挑戦的にさえ響くでしょう。彼らは自分を殉教者にしているのです。極端な場合、それは愛の神に対する、つつましい、しかし揺るがぬ忠誠心の表明です。
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愛しあっている二人は、ほとんど犠牲を祭壇にささげるときのような気持ちで互いに告げあいます。「私が親をないがしろにし、子どもを捨て、配偶者を欺いたのは、また、友人が最も私を必要としていたときに彼を見捨てたのは、ただ愛ゆえだった」と。・・・エロスの信奉者たちは、そうした犠牲に特別の価値を感じさえするかもしれません。愛の神の祭壇へのささげもののうちでも、良心ほど高価な犠牲はないのですから。

『影の国に別れを告げて―C.S.ルイスの一日一章』、中村妙子 訳、261-262頁

2019年7月2日(火)

人間は愛(アガペー)のない殉教さえしてしまえるほどに罪深い存在です。愛(エロス)のために愛(アガペー)を犠牲にすることさえしてしまえるほどの罪びとなのです。聖書の語る偶像礼拝とは、結局のところこのようなことを指しているのではないかと思います。

「全財産を貧しい人々のために使い尽くそうとも、誇ろうとしてわが身を死に引き渡そうとも、愛がなければ、わたしに何の益もない。」(第1コリント13・3)