そのような夫は絶望しません

キリストは欠点だらけの、誇り高い、あるいは狂信的な、あるいは微温的な地上の教会のうちに、いつの日か傷なくしみなき者となる未来像をごらんになり、そうした花嫁をつくりだすために労して下さいます。夫が妻の首(かしら)であるということは、キリストのそれに似た主権(彼はそれ以外の主権を許されていません)をもつということです。そのような夫は絶望しません。
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不幸な結婚が実現してしまった場合、首(かしら)たる夫の身分は、彼がそれに堪えることができるなら、最もよくキリストに似ているということになるでしょう。・・・異教の王冠は紙の冠にすぎませんし、キリスト教のそれは茨の冠なのです。真の危険はむしろ、夫が茨の冠に手を差し伸べることでなく、妻がそれをかぶっていることに気づかず、あるいはそれを彼女に強制することにあります。

『影の国に別れを告げて―C.S.ルイスの一日一章』、中村妙子 訳、259-260頁

2019年7月1日(月)

夫が妻のかしらであるということが、キリストが教会のかしらであるということにならうことなく理解されてしまうならば、間違いであるということでしょう。

「夫たちよ、キリストが教会を愛し、教会のために御自分をお与えになったように、妻を愛しなさい。」(エフェソ5・25)