外の闇のうちに取残されている者が一人でもいるかぎり、自分の救いを辞退したいというのは、確かに高潔な響きをもつ言い分だ。しかしそうした主張の詭弁性を警戒しないと、結局は意固地な独善性を宇宙の専制君主にまつりあげてしまうことになるだろう。
『影の国に別れを告げて―C.S.ルイスの一日一章』、中村妙子 訳、212-3頁
2019年5月29日(水)
柳生直行・中村妙子訳では「たとえ一人でも外の暗闇に取り残されている者がいるかぎり、自分は救いを辞退する、というのはたしかに立派な言葉のように聞こえる。だが、その言葉の持つ詭弁性に気をつけないと、依怙地な徒輩を宇宙の暴君にしてしまうことになる」(C・S・ルイス、『天国を地獄の離婚』、柳生直行・中村妙子訳、2006年3月10日発行、186-7)
「意固地な独善性」「依怙地な徒輩」を「宇宙の専制君主」「宇宙の暴君」にしてしまう。結局はこの「高潔な響きをもつ言い分」は自分を神にしてしまうことなのでしょう。
倫理的に正しそうに見えても、それが詭弁である場合があるということでしょうか。結局自分を神としてしまうならば、どんなに正しそうに見える意見でも、警戒しなければならないということでしょう。
「愚かなおとめたちは、賢いおとめたちに言った。『油を分けてください。わたしたちのともし火は消えそうです。』賢いおとめたちは答えた。『分けてあげるほどはありません。それより、店に行って、自分の分を買って来なさい。』」(マタイ25・8-9)
(この本の最後にある出典箇所一覧では「天国と地獄の離婚8」となっていますが、正しくは同書「13」のようです。)