「・・・希望をいだいて旅を続ける方が、目的地に到達することよりはるかに望ましいと思うがねえ。」
「それが真実だとしたら、いえ、真実だということがはっきりしているとしたら、いったいどういう人間が希望をいだいて旅を続けられるでしょう? 希望の対象からしてないのに、どんな旅ができるというのですか?・・・」『影の国に別れを告げて―C.S.ルイスの一日一章』、中村妙子 訳、206-7頁
2019年5月24日(金)
死んでのち再び生き返った人はいませんので、人間は死を経験することができません。ですから死後の世界は存在しないということも、実際に確かめられたことではなく、そのように信じているということが実際のところでしょう。人間は、死後の世界は存在しないと信じて生きるか、それとも、死後の世界は存在すると信じてい生きるか、であり、多くの場合はそのどちらでもなくうやむやにして、あるいは先延ばしにして生きているということでしょう。
死後の世界が存在すると信じるにしても、それをどのように信じるかによって、また生き方が違ってくるでしょう。
今月の三浦綾子カレンダーには、これと同じような言葉が、逆の意味で引用されていました。
天国の存在を信じることにおいて、天国は本当はないのだけれども、天国はあるのだ、と信じる心、気持ちが大切である、と言い切るとすれば、それはどうも聖書の語る信仰とは違う気がします。しかし逆に、天国の存在を強調するあまり、今の生き方はどうでもよいとするとすれば、それもどうかと思います。
「ファリサイ派の人々が、神の国はいつ来るのかと尋ねたので、イエスは答えて言われた。『神の国は、見える形では来ない。「ここにある」「あそこにある」と言えるものでもない。実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ。』」(ルカ17・20-21)