相手の意見が正しいと立証されることを、ぼくらは好まなかったのです。
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抵抗もせず、祈りもささげずに、欲望から起る半ば意識的な誘惑をことごとく安易に受けいれて、流れにまかせて漂ううちに、ぼくらはもはやキリスト教の信仰が信じられなくなってしまったのです。やきもち焼きの男が猜疑心に対して何ら抵抗せずに噂に耳を貸しているうちに、ついには親友に対する嘘の噂を信じはじめるように。酔っぱらいが、もう一杯飲んだってどうということはないと(その瞬間は)心から信じて酒を過ごすように。『影の国に別れを告げて―C.S.ルイスの一日一章』、中村妙子 訳、204-5頁
2019年5月23日(木)
信仰に生き続けるためには、自分自身のうちに巣くう高慢の罪と戦いつづけなければなりません。議論をして自分の正しさを誇ろうとすることは高慢です。また伝統的な信仰理解や信仰生活に対して、新しい流行の教えは、自分の高慢を満足させるには魅力的です。そういうことに対しては、謙遜という武器が必要です。そのためには絶えずイエスさまの十字架を見上げ続けなければなりません。
「異なる教えを説き、わたしたちの主イエス・キリストの健全な言葉にも、信心に基づく教えにも従わない者がいれば、その者は高慢で、何も分からず、議論や口論に病みつきになっています。そこから、ねたみ、争い、中傷、邪推、絶え間ない言い争いが生じるのです。これらは、精神が腐り、真理に背を向け、信心を利得の道と考える者の間で起こるものです。」(第1テモテ6・3-5)