私は滝の描くカーヴに似ているでしょう

ラザロの蘇生の奇跡がキリスト御自身の復活と違うのは、ラザロの場合は栄光に輝く、あたらしい存在様式によみがえらされたのではなく、生前彼があずかっていたのと同じ種類の生に復帰せしめられたにすぎないと思われるからです。
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ラザロの蘇生は私たちの理解のおよぶかぎり、単なる逆転です。
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個体の生存中に有機的であった物質は、その個体が死ぬとともに無機的なもののうちに流出しはじめ、ついには拡散し、一部は他の有機体によって利用されることになります。ラザロの蘇生は、これとは逆の経過を示しています。
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現在のこの地上の生活においてさえ、私たちの肉体の同一性は、同じ分子を保持しつづけているという事実のうちにあるのではありません。私という人間の形はそのうちの物質が変化しつづけているにもかかららず、あくまでも一貫しています。その点、私は滝の描くカーヴに似ているでしょう。

『影の国に別れを告げて―C.S.ルイスの一日一章』、中村妙子 訳、177-8頁

2019年5月4日(土)

私たちのからだを構成している細胞は、日々死滅し、日々新しくつくられているといいます。変化しているのです。にもかかわらず私という存在は、ここにこうして存在しています。身体の物質は入れ替わっているのに、私という存在はかわらずにここに生きているのです。不思議です。私とはいったい何なのでしょうか。少なくとも物質を指しているのではないということは明らかなようです。

「過越祭の六日前に、イエスはベタニアに行かれた。そこには、イエスが死者の中からよみがえらせたラザロがいた。」(ヨハネ12・1)