毎年、神はわずかな麦を多くの麦に変えておられます。種子がまかれ、何倍にも実るのです。・・・五千人を養われたこの奇跡のうちに在したもうのは、私たちが知らずして拝んできた神、ポンテオ・ピラトの在任中にエルサレムでひとたび死に、ひとたび復活された真の穀物の王です。
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その日、彼はパンと同じく魚をも何倍にもふやされました。けれどもすべての入江、すべての川をのぞいてごらんなさい。そこに群れ泳ぐ多くの魚は、神がいまもなお、海を無数の腹子で満たしていたもうことを物語っています。
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数千人を養われたあの日にも、受肉の神は同じことをなさいました。彼が海で、湖で、小川でつねになさってこられたことを、彼はこの日、人間の手、働き人の手で、またずっとひそやかな、もっと小さな規模でなさったのです。『影の国に別れを告げて―C.S.ルイスの一日一章』、中村妙子 訳、147-8頁
2019年4月13日(土)
神さまは日々奇跡を行っていてくださいます。
聖書は奇跡のことを「不思議としるし」という言い方で語ります。「不思議」とは私たちの理解を超えているということです。常でない、有り難いことである、ということです。ですからもし科学力で奇跡を解明したところで、そこに聖書の信仰が生まれるわけではありません。どこまでも不思議であり、不思議だからこそ、信仰をもってそれらを受けいれるのです。私の理解力を越えたことをなさってくださるのが神さまですから、神さまを信じる者は、どんな状況のなかにも希望を失うことがありません。
また「しるし」とは、それ自体ではなくそれが指し示しているものがあり、それが重要であるということです。ハイキングに出かけて、こちらが目的地ですよという看板に導かれて安全に目的地に到着できます。その場合、看板はしるしです。看板が大切なのではなく、それが指し示している目的地が大切なのです。これと同じように、奇跡は、奇跡そのものが大切なのではなく、それが指し示しているものが大切なのです。それが奇跡をわざわざしるしという所以です。奇跡が行われても、神さまが見えず、奇跡を行ったかのように称賛される人間や組織がそこにクローズアップされるとすれば、その奇跡は聖書の語る奇跡ではありません。
奇跡は日々神さまが起こしていてくださいます。不思議を感じる心を失うことなく、つねに奇跡が指し示している神さまを見上げる者でありたいと思います。
「食べた人は、女と子供を別にして、男が五千人ほどであった。」(マタイ14・21)