考えていること自体

もしも彼らの考えていること自体―唯物論にしろ、天文学にしろ―が偶然的な副産物であるとしたら、なぜ私たちはそれを真理として信じなければならないのでしょう?

『影の国に別れを告げて―C.S.ルイスの一日一章』、中村妙子 訳、142頁

2019年4月9日(火)

偶然ということを全く否定する必要はないと思いますが、自分の人生や隣人との豊かな歩みの土台に偶然しか見いだすことができないとすれば、人生や愛そのものも虚しいものとなるでしょう。人生最大の問題である死も偶然であるとすれば、生きている意味が見出せなくなります。
聖書は、創造の神の存在を語ります。私や私の人生、世界のすべてを創造された人格神がおられて、いまもすべてのものをその御手の中に治めておられると語ります。
「人は『意味』の世界に生きている動物ではないのか。・・・死をふくめて私たちのさまざまな限界状況に対して、『意味づけ』をする、しかも『究極的な意味づけ』をするのが『宗教』の重要な役割なのである。『心底』、納得できる『意味づけ』、それが『宗教』なのである」(阿満利麿、『親鸞』、筑摩書房(ちくま新書)、2011年1月10日発行、11-14頁)
聖書は、私たちに窮極的な人生の意味を与えてくれます。

「あなたに先立つ遠い昔、神が地上に人間を創造された最初の時代にさかのぼり、また天の果てから果てまで尋ねてみるがよい。これほど大いなることがかつて起こったであろうか。あるいは、そのようなことを聞いたことがあろうか。」(申命記4・32)