それもまたキリストの苦しみにあずかっていること

ある人々は、不安を感じるのは罪だと後ろめたく思い、信仰が足りないからだと自分を責めます。これは間違っているのではないでしょうか。不安は苦しいものです。すべての苦しみと同じく、不安を私たちが自分たちに加えられている苦難として受けいれるとき、それもまたキリストの苦しみにあずかっていることと言えます。なぜならキリストの苦難は、ゲツセマネに始まるからです。
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すべては神の御心のままにと付加えながらも、イエスはこの杯を過ぎ去らせて下さいと祈られました。それが過ぎ去ることは絶対にありえないと確実に知りながら、そのように祈られるはずはありません。論理的にも、心理的にも、そんなことはあろうはずがないのです。
これがどういうことを意味するか、わかりますか? 人間性に付きものであるすべての試練が欠けることがないように、一抹の希望と不安と危惧のいりまじった苛責が、この最後の瞬間に主イエスにふりかかったのです。ひょっとしたら恐怖のきわみの苛責は免れるのではないかという可能性さえ、ちらつきました。
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この最後の(誤った)希望、なかえられる見込みがないのに胸をよぎった、かりそめの希望、またそれに続く魂の葛藤と血の汗がなかったならば、キリストはおそらく真の人の子ではなかったでしょう。何から何まで予想のつく世界に住むというのは、人間の場合にはありえないことなのですから。

『影の国に別れを告げて―C.S.ルイスの一日一章』、中村妙子 訳、135頁f

2019年4月5日(金)

神さまを信じる者は、不安の中で、真に苦しむことができる者です。不安のなかであっても神さまへの信頼に生きる者です。神さまへの信頼をいただいているからこそ、不安の心を神さまに訴えゆだねることがゆるされているのです。神さまを信じているからこそ、不安の中で醜態をさらす自分を受けいれることができるのです。

「『父よ、みこころなら、この杯をわたしから取り去ってください。しかし、わたしの願いではなく、みこころがなりますように。』〔すると、御使いが天から現れて、イエスを力づけた。」(ルカ22・42-43)