言分や言訳を差引いた後に残るもの、申し開きしようのないもの

しかし問題は、<神の赦しを乞う>ということがじつはしばしば、もっぱら神に私たちの言分を認めて下さるようにお願いすることになっているという事実です。
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つまり言分や言訳を差引いた後に残るもの、申し開きしようのないもの、いかなる意味ででも容赦しがたい(しかしありがたいことに、神の赦しのおよぶ)ものこそが真に重要であることを忘れがちなのです。
このことを忘れるならば私たちは、じつは自分に都合のいい言訳を並べたてて自己満足に陥っているだけであるのに、悔改めたつもり、赦されたつもりで、神のみまえを去ることになるでしょう。

『影の国に別れを告げて―C.S.ルイスの一日一章』、中村妙子 訳、84ff頁

2019年2月27日(水)

悔い改めによる罪の赦しが、言い訳による容赦になってしまっている、とルイスはいいます。悔い改めと言い訳は違うものでし、罪の赦しと罪の容赦とは違うものであるということが改めて明らかにされます。
そもそも日本語では「ゆるし」を「赦し」と「許し」などいろいろな漢字で表そうとしていますから、よけいややこしいのかもしれません。

「次のように書いてある。『メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる』と。エルサレムから始めて、あなたがたはこれらのことの証人となる。」(ルカ24・46-48)