若者が自国の罪を嘆くのはどういうことかと考えてみると、事態はもう少しこみいっているようです。
・・・
イギリスの外交政策について懺悔するように求められる青年は、じつは隣人の行動について懺悔することを求められているのです。
懺悔は糾弾を前提としています。ですから国民総懺悔の第一の、そして危険きわまりない魅力は、自分自身の罪を悔いるという苦しい仕事から他人の行動を嘆き―何よりもそれを弾劾する―という、もっとも楽しい仕事へと方向を転換することにあります。
・・・
懺悔する者は自分の罪については容赦しないように、疑わしいときも自分に有利に取り繕わないように奨励されていますから、<われわれ>と呼ばれる政府は、事実上、慈悲の、いえ、公正の領域のかなたにあるとさえ言えます。すなわち、それについては何を言っても構わないということになり、いささかの抑制もなしに他を誹謗するという悪徳にいい気持で浸れるのです。あまつさえ、悔改めを実践しているという自己満足を感じながら。『影の国に別れを告げて―C.S.ルイスの一日一章』、中村妙子 訳、82f頁
2019年2月25日(月)
だれか他人の罪を暴き糾弾することは、いい気持に浸れることです。なにか自分が賢く正義の味方になったような気分になります。しかしそれは自分の罪から目を離すことです。あるいは自分の罪から目を離したいがために、他者を糾弾するということなのかもしれません。
そうすると自分の罪にどこか気づいているからこそ、他を糾弾するのかも知れません。糾弾せずにはいられないのかもしれません。それは自分に自信がない、自分という存在は取るに足りない醜い存在であると、どこかコンプレックスを持っていることが、そうさせているのかもしれません。
おおよそ国家の悪事、社会悪、他者の問題点を糾弾する取り組みにおいて、上記のような心が渦巻いているとすれば、そこには創造的なものが生まれることはないでしょう。
ですから国家の悪事、社会悪、他者の問題点を糾弾するとすれば、まず自分自身が神さまの前に悔い改め、罪びとであることをしっかりと告白し、それでもなお愛していて下さる神さまにお出会いし直すことが大切です。そうして自分自身を神さまが受け入れていてくださることを確かにして、その同じ神さまが、国家を、社会を、他者を愛していてくださることを信じて、発言すべきことがあるならば発言することは大切なことでしょう。
おおよそ自分の罪を棚に上げておいて他者の欠けを糾弾している人の顔はなんと醜いことでしょう。(と、そういう人を見つつ、こんな陰口をたたくとすれば、きっと私も相当醜い顔をしていることでしょう。(笑))
「ところが、徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。『神様、罪人のわたしを憐れんでください。』」(ルカ18・13)
「そこで、まず第一に勧めます。願いと祈りと執り成しと感謝とをすべての人々のためにささげなさい。王たちやすべての高官のためにもささげなさい。わたしたちが常に信心と品位を保ち、平穏で落ち着いた生活を送るためです。」(第1テモテ2・1,2)