自分がわかっていようがいまいが

自分が十字架と苦しみをになおうとも、常に主に従わせてください。そして、天にいます父であるあなたの名のために、主があゆまれた道をわれらもよろこびつつあゆむことができますように。自分がわかっていようがいまいが、われらはあなたの子となってしまっているのです。

C.ブルームハルト、『夕べの祈り』、加藤常昭 訳、57頁

〔彼が担ったのはわたしたちの病/彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに/わたしたちは思っていた/神の手にかかり、打たれたから/彼は苦しんでいるのだ、と。/彼が刺し貫かれたのは/わたしたちの背きのためであり/彼が打ち砕かれたのは/わたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって/わたしたちに平和が与えられ/彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。〕(イザヤ53・4,5)

2018年3月3日(土)

私が神の子とされたということ自体が奇跡なのです。神さまの一方的な憐みによって神の子としていただいたのです。ただイエスさまの十字架と復活において、罪びとでしかなかった私を神の子としてくださったのです。

ですからこのことは、自分がわかっていようがいまいが、神さまの子としていただいた事実は変わらないのです。

決して変わることのない神の子としての特権の中に生かされていることを今日も感謝します。