「温厚の人或は火に乏しく、熱心なる者多くは嫉妬に富む。皆清明の気を得て息する能はざるの弊なり。是の気に於て息するなければ善入らず。善入らざれば悪出でず。熱心にして清明ならざれば、百事に鞅掌して自ら焼くるに至る。其動く所必ず己を愛するに止まる。故に長えに生命に入る能はざるなり。」

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「温厚の人或は火に乏しく、熱心なる者多くは嫉妬に富む。皆清明の気を得て息する能はざるの弊なり。是の気に於て息するなければ善入らず。善入らざれば悪出でず。熱心にして清明ならざれば、百事に鞅掌して自ら焼くるに至る。其動く所必ず己を愛するに止まる。故に長えに生命に入る能はざるなり。」

新井奥邃、『聖言』、148

「温厚な人である場合は火に乏しく、熱心である者の多くは嫉妬心に溢れている。みな清く明らかな心を得て生きることができなくさせる弊害である。この心をもって生きることがないならば善に入れない。善に入れないならば悪が出て行かない。熱心であっても清く明らかな心がないならば、多くのことに忙しく働いて自分自身を燃え尽きさせてしまうだろう。そのような行動は必ず自分を愛するだけにとどまってしまう。ゆえに永遠の命に入ることはできない。」

 「清明の気」。清く明るい心ということでしょうか。
 熱心ということは決して悪いことではありませんが、それだけでは善いことでも悪いことでもありません。たとえば銀行強盗をする人も熱心にしているわけですから。清く明るい心が必要です。清さ、神さまの喜んでくださる心を知ること。明るさ、周りが見えていること。そういう心をしっかりともってそのうえで熱心であるということが素晴らしい人生をひらくのです。
 清明の気のない熱心は、いたずらに多くの物に手を付け、たくさんのことで心をふさぎ、周りが見えず、結局は自己中心の枠から抜け出せない心です。
 永遠の命に生きるということは、汲めども尽きない泉のように、労しても燃え尽きず、かえって喜びがあふれるような人生を生きることです。そのためには、清明の気は不可欠です。

〔聖書の個所〕

イエスは答えて言われた。「この水を飲む者はだれでも、また渇きます。しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。」女はイエスに言った。「先生。私が渇くことがなく、もうここまでくみに来なくてもよいように、その水を私に下さい。」
(ヨハネ4章13~15節)

さて、祭りの終わりの大いなる日に、イエスは立って、大声で言われた。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」
(ヨハネ7章37~38節)

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