「神の心に友たる者は、啻に人に知らるるを求めざるのみならず、其の程度に於ては誠に遠く世人の先きに在り、此の人や定命に於て自由を楽しみ、自由に於て定命に従ふ。」

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「神の心に友たる者は、啻に人に知らるるを求めざるのみならず、其の程度に於ては誠に遠く世人の先きに在り、此の人や定命に於て自由を楽しみ、自由に於て定命に従ふ。」

新井奥邃、『聖言』、118

「神の心を大切に考え神の心と仲良く生きる者は、人に知られることを求めないというだけでなく、その程度においては実に世の人びとの先はるか遠くにあり、このような人は、寿命において自由を楽しみ、自由に於て寿命に従う。」

 神さまのみ心を大切に生きようとする者は、単にこの世界にあって名声を求めないということだけではありません。神さまのみ心を大切に生きようとする者は、それぞれに与えられた寿命を受け入れます。人間はいつかは死ぬものです。人生には限りがあります。そのことを受けて入れています。その限界の中で、自由に生きるのです。また自由に生きるということは、この寿命を受け入れて生きるということでもあります。
 人間、いつ死を迎えるかわかりません。今日かもわかりません。いつ死を迎えてもよいように、常にその時その時を大切に生きていきましょう。そしてその時が来たならば、たとえ自分の目から見て未完成の事々が山積みされていても、平安をもって死を受け入れていきましょう。その時が神さまの時であったのですから、きっと最善の時なのです。最善の時は、自分の目から見て最善であるかどうかではなく、神さまの目から見て最善であるかどうかが大切です。
 この世の名声を求めるへの固執は、このような死の受容を難しくさせます。死の受容が難しいと、それまでの人生も常に焦りの中に置かれますので、自由な人生を生きることができません。自由な人生、平安な人生を生きるためにも、神さまの御手の中にある死の時を受け入れることが大切です。

〔聖書の個所〕

そして言った。「私は裸で母の胎から出て来た。また、裸で私はかしこに帰ろう。主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな。」
(ヨブ1章21節)

天の下では、何事にも定まった時期があり、すべての営みには時がある。生まれるのに時があり、死ぬのに時がある。植えるのに時があり、植えた物を引き抜くのに時がある。・・・神のなさることは、すべて時にかなって美しい。神はまた、人の心に永遠への思いを与えられた。しかし、人は、神が行なわれるみわざを、初めから終わりまで見きわめることができない。
(伝道者3章1~11節)

いのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしと福音とのためにいのちを失う者はそれを救うのです。人は、たとい全世界を得ても、いのちを損じたら、何の得がありましょう。
(マルコ8章35~36節)

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