「偽信者はパリサイなり。大禍の霊魂たり。其心に於て神を信ぜずして主の名の下に立つ者なり。其身に於て主に事へずして其道を伝へんとする者なり。主の真愛を拒む者なり。之を接ぐるを其霊に於て絶つ者なり。之れ大禍の霊魂なり。」

執筆者:

カテゴリ:

「偽信者はパリサイなり。大禍の霊魂たり。其心に於て神を信ぜずして主の名の下に立つ者なり。其身に於て主に事へずして其道を伝へんとする者なり。主の真愛を拒む者なり。之を接ぐるを其霊に於て絶つ者なり。之れ大禍の霊魂なり。」

新井奥邃、『聖言』、119

「偽の信仰者とはパリサイである。これは大きな禍の霊魂である。その心に神を信じないで、主の名の下に立つ者である。その身体において主に仕えることをしないで、その道を伝えようとする者である。主のまことの愛を拒む者である。これと連なることはその霊において断絶する者である。これこそ大きな禍の霊魂である。」

 パリサイ人(パリサイ派の人)というのが聖書の中に登場します。「パリサイ」という言葉は「分離」を表わす言葉です。汚れたことから「分離」して、純粋なユダヤ教に生きよう、純粋に律法に生きようとしたユダヤ人の中の一派です。自分自身がそのように清く生きようとすることは決して悪いことではありませんが、そのような心は容易にそれができない人びとへの非難を生み出しました。律法を守れない人を差別したのです。罪人や遊女、異邦人を差別したのです。そのようなところにイエスさまは来られました。イエスさまは、罪人や遊女と食事をし、異邦人と交流をされました。そのようなイエスさまの姿はパリサイ派の人びとには受け入れがたいものがありました。その反感は殺意となり、イエスさまを十字架につけるまでになりました。
 パリサイ人たちが聖さを求めることは悪いことではありません。彼らの問題点は「神さま抜き」「神さまへの信仰抜き」でそれをしようとしたところにあります。人間は自分の力で清くなったと思った瞬間に高慢、傲慢になり他人をさばき始めるのです。人をさばくところに成り立つ清さなど、人を殺して成り立つ正義のようなもので何の役にも立ちません。
 神さまを信じ、神さまのお力によって、自らが清くされていくならば、そこで得た清さは神さまの恵みの業です。自分の力ではありません。高慢になる誘惑から守られるのです。清さの土台は、キリストからの愛、キリストへの愛にあります。

〔聖書の個所〕

自分を義人だと自任し、他の人々を見下している者たちに対しては、イエスはこのようなたとえを話された。「ふたりの人が、祈るために宮に上った。ひとりはパリサイ人で、もうひとりは取税人であった。パリサイ人は、立って、心の中でこんな祈りをした。『神よ。私はほかの人々のようにゆする者、不正な者、姦淫する者ではなく、ことにこの取税人のようではないことを、感謝します。私は週に二度断食し、自分の受けるものはみな、その十分の一をささげております。』ところが、取税人は遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて言った。『神さま。こんな罪人の私をあわれんでください。』あなたがたに言うが、この人が、義と認められて家に帰りました。パリサイ人ではありません。なぜなら、だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるからです。」
(ルカ18章9~14節)

イエスは答えて言われた。「あなたがたが、神が遣わした者を信じること、それが神のわざです。」
(ヨハネ6章29節)

コメント

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA