「嗚呼子女たる者、慎みて神は誠に無限神にして、又実体の真人たるを造次にも忘るべからず。我儕は常に之を両面より奉認して奉事するなり。苟も一方に偏せば、到底神を知るを能くすべからず。当に両側よりして神を認め奉り、而して父母基督に事へまつるを以て、終始要務となすべきなり。」
新井奥邃、『聖言』、109
「子どもである者よ、間違いのないように。神はまことに無限の神であると同時に、実体が真の人であるということを、わずかの間であっても忘れてはならない。私たちはつねにこれを両方の面より、畏れをもって認め仕える者である。もしどちらか一方にかたよるならば、けっして神を知ることができない。両側より神を心から認め、そうして父であり母であるキリストにお仕えすることを、終始かわることのない最も大切な務めとなすべきである。」
神さまを知るということは、神であり人であるお方を知るということによってはじめて可能となります。ただ何の手がかりもなしに神を知ろうとするならば、人間は自分好みの神、すなわち偶像を造っていくでしょう。それではまことに神を知ることになりません。ただ神さまからの啓示に、私たちの心が開かれ、それによって私たちははじめて神さまを知るのです。その啓示こそ神の言であり、またキリストご自身です。キリストは、まことの神であると同時にまことの人です。人間はキリストによってはじめて神さまを知らされるのです。
大人が子どもの気持ちを理解するためには、子どもと同じところに立ってみなければ理解できないでしょう。あるいは理解したことにならないでしょう。もちろん子どもが大人になればそれで互いの理解が生まれるのかもしれませんが、子どもが大人になれるようであるならば、もう子どもではないのです。子どもは大人ではないからこそ子どもなのです。大人のほうがへりくだって子どもの視点に立つことによって、双方に理解が生まれるのです。
もちろん双方の理解と知ってもそれは大人と子どもにおいてであるので、そのように考えましたが、神さまと人間に置き換えるならば、神さまは人間を理解できないわけではありません。ただ人間のほうが神さまに理解していただいているという実感を持つことのために、神さまは人間となってくださったのです。それがキリストです。
こうして人間はキリストを知ることによってはじめて神さまを知る者としていただけるのです。
〔聖書の個所〕
いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである。
(ヨハネ1章18節)
だれも神を見た者はありません。ただ神から出た者、すなわち、この者だけが、父を見たのです。
(ヨハネ6章46節)
キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。
(ピリピ2章6~7節)
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