愛の律法を成就するため

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信仰は、罪人に対して宣言された神の怒りと罪を仮定しているからです。これらのことなしでは、罪人が神と和解のために罪の贖いをする必要はありません。

・・・

愛はそれ自体のためでなく、愛の律法を再び成就する手段として心に満ち、それに信仰が加えられるのです。

創世記3章9節
2013年9月2日(月)

『心を新たに』~ウェスレーによる一日一生~
(編)A.ルシー、(訳)坂本誠
263頁

信仰によって罪人は救われるのです。罪人が救われるためには信仰が必要なのです。そうすると人間が罪人でなかったら、救われる必要がないので、信仰の必要性もありません。まさに罪を犯す前のエデンの園でのアダムとエバがそうであったと書かれているようです。

私たちは、このアダムの時代のものではありませんので、罪人ですから救われるためにはどうしても信仰が必要です。しかし信仰によって贖われたならば、そののちはどのように生きていくのでしょうか。エデンの園のアダムとエバのように、ひたすら神さまを愛し隣人を愛するために生きていくのです。

それは愛の律法を成就するために生きていくということです。

あるいは福音を聞き、福音を受け入れ、福音に生きるということは、愛の律法を成就するために生きるということではないです。

贖われるために信仰が必要でしたが、愛の律法を成就するためにも信仰が必要です。あるいは贖われるということは、罪から救われる、地獄に行かないで天国に行けるということだけではなく、今この時永遠のいのち、尽きることのない命に生きる、使命に生きるということなのです。

救われるということは、すなわち愛に生きるということなのです。イエスさまを信じ、罪が赦され永遠の命に生きているけれども、愛に生きることをしていないというのならば、とても強い言い方をすればそれは救われていないのと同じなのではないでしょうか。イエスさまを信じているといいながら、自分を愛するように隣人を愛していない、あるいは愛していると思い込んでいるかもしれないけれども、独りよがりで相手にはちっとも伝わっていない、あるいは伝わっていないばかりか逆に傷つけているというのならば、それは救われていないのと同じなのではないでしょうか。

キリスト者はみなこの目標をいただいています。

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