たとえ彼らが傷つけられたと感じたとしても、私たちはイエスのように真実を語らなければならないからです。彼らが聞こうが聞くまいが、そのままの叫び声を挙げることは私たちの責任です。
私たちが宣べ伝えるのは神の書に書かれていることであり、それは人々を喜ばせるためでなく、主を喜ばせるために語るのです。私たちは約束だけでなく、脅威も語らなければならないのです。同時に、神が子供のために用意してくださったすべての権利、主が命じられるすべてのことを語らなければならないのです。
マタイによる福音書28章20節
2013年8月29日(木)『心を新たに』~ウェスレーによる一日一生~
(編)A.ルシー、(訳)坂本誠
258頁
佐々木という教育学者が、社会が豊かになると外罰的になる、と何かの本に書いておられました。
外罰的、つまり「自分の欲求不満の原因を外部に求め、他人を非難したり、外部の物・状況に対して攻撃反応を示したりする傾向。他罰的。」ということです。
豊かな社会、環境。それは経済的な面だけでなく、地位や名誉といった面での豊かさも入るのかもしれません。現代の日本はまさにそのような中にあります。だから何でも人の責任にするのです。
何もかも整っている人間はこの世界には一人もいません。何らかの短所、弱点、人と比べて足りない部分をもっています。それをコンプレックスとして生きています。時にそれらが大きく自分の人生に影を落とし、生きずらい人生となることがあります。もしそれらを克服することができればどんなに素晴らしい人生でしょうか。
克服するためにはどうすればいいか。答えはそれぞれが見つけなければなりません。それは自分だけに与えられた人生の宿題のようなものです。誰かが代わりに答えを出してくれることではありません。またそれは自分なりの答えでいいのです。誰かの立派な答えを自分のものにしなくても、貧しくとも自分なりの答えを出して、克服していけばいいのです。
そのような克服の道のりにおいて邪魔になるものが、上記の外罰的、他罰的な生き方です。何でも人のせいにしていては克服できません。克服できないので幸せな人生を送ることができません。何でも人のせいにしている人ほど醜い人はいません。
しっかりと自分の人生を、それがどんなに問題に満ちたものであっても引き受けて生きていくところに幸せな人生が開かれていきます。
そのために、時に耳痛い言葉も聞かなければならないのです。神さまの言葉は、耳触りの良い言葉だけではなく、耳痛い言葉です。それを聞けるか聞けないか。それは人生を幸せに送れるか否かの分かれ道です。
牧師は、神さまの言葉を語ります。耳触りの良い言葉ばかりではなく、耳痛い言葉を勇気と信仰と愛をもって語らなければなりません。人々が聞こうが聞くまいが語らなければなりません。
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