静まりの時
- テーマ:公平と正義
- 聖書箇所:イザヤ5・1~7
- 日付:2026年08月17日(月)
4 わがぶどう畑になすべきことで、
何かわたしがしなかったことがあるか。
なぜ、ぶどうがなるのを心待ちにしていたのに、
酸いぶどうができたのか。
・・・
7 万軍の主のぶどう畑はイスラエルの家。
ユダの人は、主が喜んで植えたもの。
主は公正を望まれた。しかし見よ、流血。
正義を望まれた。しかし見よ、悲鳴。
神さまは世界のすべてを創造されました。その創造されたものはことごとく「良いもの」でした。人間はその「冠」のように良いものに満ちた世界の中に創造されました。神さまはそのような世界に生きる人間との交わりを心待ちにしておられました。神さまによる創造は6日で行われ、7日目には休まれました。休まれた日は、神さまと人間との豊かな交わりのときとして創造されました。
そのような神さまとのリクリエーション(recreation)が今日の日曜日の意味であり、またアウグスティヌスか誰かがいったように、今の時は、この7日目がずっと続いている時なのかもしれません。そうであれば、日々神さまとのリクリエーション(レクレーション)として過ごすのが人間のなすべきことです。
神さまは、甘いぶどうができるのを心待ちにしておられました。しかし酸っぱいぶどうができてしまいました。世界は神さまとのレクレーションを過ごすことができません。流血と悲鳴の世界となってしまいました。
主イエスを信じて救われる、ということは、罪赦され永遠のいのちに生きる者とされる、ということです。罪赦されて永遠のいのちに生きる喜びは、この甘いぶどうにしていただくことであり、神さまとの喜びの交わりの中に生かされることです。それは神さまが望まれた「公正」に生きることです。
公正に生きるということは、単純に平等にすればよいというものではありません。私たちには違いがあります。背の高い人もいればそうでない人もいます。窓から景色を見ようとすると、背の高い人は難なく見れるかもしれませんが、背の低い人はそうはいきません。背の低い人には足台を備えるということで、公平に外の景色を見ることができます。それはもしかするとあるひとにとって平等ではないかもしれませんが、外の景色を見ることができるということでは公平ではあります。それをここでの「公正」であるとすれば、公正は互いに思いやりや配慮、ときに我慢をしなければ実現しないものです。
いま世界で飢餓が起こっている原因に、不平等な分配があるといわれます。一部の人が多くの富を所有し、その他の人は貧困の中に置かれているといいます。誰もが豊かで平等の世界を求めて生まれた共産主義や社会主義は結局独裁的な政治、全体主義となりました。一方資本主義や自由は、これも一部の人が巨万の富を手にする世界となりました。科学技術の前進、AIの発達は、多くの人から仕事を奪い、ますます資本家へ財力が集中していきます。公正な世界を求められた神さまの創造された世界は、流血と悲鳴が聞こえる世界となっているのではないか。甘いぶどうを心待ちにしておられたにもかかわらず、酸いぶどうばかりがあちこちに実っているのではないか。
すべての人が主に立ち帰ること以外に道はないように思います。