静まりの時
- テーマ:神の家
- 聖書箇所:第一コリント3・10~17
- 日付:2026年06月20日(土)
10 私は、自分に与えられた神の恵みによって、賢い建築家のように土台を据えました。ほかの人がその上に家を建てるのです。しかし、どのように建てるかは、それぞれが注意しなければなりません。
11 だれも、すでに据えられている土台以外の物を据えることはできないからです。その土台とはイエス・キリストです。
パウロは信仰生活や教会生活、宣教について、建築にたとえて語ります。コリントの教会に対して宣教したことを、土台を据えた、という言い方で語っています。その据えられた土台の上に信仰生活を送る、教会生活を送る、ということを、家を建てる、といいます。
どんな家を建てるかは、その建てる人によって違いが生まれます。創意工夫がなされます。個性が出てきます。しかしどんな家を建てるにしても、土台を無視することはできません。四角い土台の上にはやはり四角い建物が建てられるはずです。
キリスト教信仰は、聖書を土台としていますが、ここでパウロは「土台はイエス・キリストである」と語ります。聖書を土台とすることは、イエスさまを土台とすることと同じだと思いますが、もしかしたら違いが生まれているかもしれません。
聖書を読む際に、キリスト教会は、キリストの十字架と復活が聖書の中心であることを理解して読みます。それは新約聖書だけに限ることではありません。旧約聖書を読むにおいても、そこにキリストの十字架と復活を読みます。あるいはキリストの十字架と復活によって理解し解釈します。ですから旧約聖書のことを旧約聖書と呼んでいます。ユダヤ教やイスラム教は聖書から始まる39巻の書物を旧約聖書とは呼びません。
聖書全巻をキリストの十字架と復活によって読んでいく、ということは、すでに新約聖書において行われていることです。例えばコロサイ1章には創造者としてのキリストの姿が描かれています。
パウロは、あるいはキリスト教会は、このように聖書全巻を、イエス・キリストを土台として読みました。それが、土台はイエス・キリストである、という意味であるとすれば、他の宗教ではなくキリスト教会に向かってそれが語られなければならない事態とはいったいどういうことであったのか。
19世紀末から20世紀にかけて、イエスさまの十字架と復活よりも、イエスさまの語られた倫理道徳的な言葉が優先的に読まれていく、ということがあったようです。私たちもイエスさまのように愛に生きましょう、といった具合です。さらには、イエスさまは隣人のためにいのちを差し出してくださった、私たちもそのように命を差し出そう、と。宗教的偉人としての人間イエス、が強調されます。そのような論調のなかで、イエスさまの十字架が私たち罪びとの贖いのためであった、ということが希薄になっていったようです。
ジェームス・デニーはその著『キリストの死』において次のように語ります。
「『教義学的』観点に立つことを拒む者は、そうすることによって、完全な『歴史学的』観点にも到達しない」
(ジェームス・デニー、『キリストの死』、「序説」、新教出版社、1991年、17頁)
教義学的観点とは、組織神学的な観点をもって聖書を読む、ということだと思います。それに対して歴史学的観点とは、聖書を歴史的な文献、史料として読むということだと思います。歴史学的観点によって聖書を読もうとするあまり、教義学的な観点が希薄になってしまった、というところに19世紀から20世紀の神学的状況の問題点があった、ということかもしれません。
聖書が土台なのですが、それは聖書を、キリストの十字架と復活によって読む、ということにおいて土台なのです。すなわち土台はイエス・キリストなのです。