静まりの時
- テーマ:たがいに徳を高める
- 聖書箇所:第一コリント14・6~19
- 日付:2026年06月22日(月)
19 しかし教会では、異言で一万のことばを語るよりむしろ、ほかの人たちにも教えるために、私の知性で五つのことばを語りたいと思います。
異言と預言。
異言とは、新聖書辞典(いのちのことば社、1985年9月20日発行)には以下のように書かれています。
■いげん 異言
〈ギ〉グローサイ。このことばは、新約聖書では2箇所に出てくる。ペンテコステの日には、弟子たちが聖霊に満たされて異言を語った事実が述べられ(使2:1‐13)、コリント人への手紙では異言の賜物と教会の秩序が語られている(Ⅰコリ14:1‐33)。ペンテコステの日、弟子たちは「他国のことばで話しだした」(使2:4)。彼らはその話すことばを理解することができ、ことばの混乱を起したバベルの塔の物語とは逆に、聖霊は人々がことばを越えて互いに理解することができるようにされた。コリントにおける異言は聞いただけでは理解することができなかったので、解き明かしを必要とした(Ⅰコリ14:5、27)。パウロは異言の賜物を否定していないが、それは教会の徳を建てるものでなければならない、と教えている(Ⅰコリ14:5、12)。すべての賜物は教会の秩序と平和と建徳のためである。
ここには、聖霊降臨の日に弟子たちによって語られたことばも、異言であったと書かれていますが、聖書には「他国のいろいろなことば」(使徒2章4節)とあり、その場にいた人たちが理解できた(同8,11節)わけですから、理解できないと説明されている第一コリント14章の異言(第一コリント14・13ほか)とは違うものだと思います。
14章をはじめ聖書では異言についてその存在を否定していませんが、少なからず否定的に取り扱われていることは明らかですので、おおよそキリスト教会では強調することはありません。ましてやそれを信仰の証し、救われている証拠のように語られることはありません。
教会は、神さまによって呼び出された者の集まりです。呼び出されたのには目的があると聖書は語ります。その一つは、たがいに徳を高める、ということです。
たがいに徳を高めるために私の教会生活、信仰生活は与えられている。そのためにそれぞれに賜物が与えられている。どんなにすぐれた賜物であってもたがいに徳を高めることにならないならば、それはすぐれた賜物とは言えない。逆にどんなに小さな賜物であっても、それがたがいに徳を高めることであるならば、豊かな賜物である。聖書はそう語ります。
たがいに徳を高めることにならないならば、どんなに素晴らしい賜物であってもそれを止める。そういう自由をキリスト者は神さまからいただいています。賜物は大いに用いられることが期待されているものですが、野放図に発揮されていいわけではありません。理性と愛のもとにコントロールされてなければなりません。
各自でコントロールされていることが望まれますが、どうしてもそうできない人もいます。ですから教会にはルールがあります。そしてそれを尊重することが集う者の義務となります。もし尊重できないならば、皆さんが安心して集うことができるために、大変残念なのですがその方には集うことを控えていただかなければならないことになります。