静まりの時
- テーマ:神の家
- 聖書箇所:マタイ21・12~17
- 日付:2026年06月19日(金)
12 それから、イエスは宮に入って、その中で売り買いしている者たちをみな追い出し、両替人の台や、鳩を売る者たちの腰掛けを倒された。
13 そして彼らに言われた。「『わたしの家は祈りの家と呼ばれる』と書いてある。それなのに、おまえたちはそれを『強盗の巣』にしている。」
14 また、宮の中で、目の見えない人たちや足の不自由な人たちがみもとに来たので、イエスは彼らを癒やされた。
「祈りの家」と「強盗の巣」との違いはいったい何なのだろう。宮の中で売り買いしている者がいる、ということだろうか。両替人がいるということ、鳩を売る者たちがいる、ということだろうか。
両替人が行っていたことは、大きなお金を小銭に両替していた、ということではなく、宗教的な意味がそこにあったと言われます。ユダヤの神殿に献げる貨幣は、ユダヤの貨幣でなければなりませんでした。しかし流通していたのは、ローマの貨幣でした。ローマの貨幣にはローマの皇帝の肖像が刻まれています。そこにはローマ皇帝は神(神の子)であるという文字も刻まれていたそうです。それをユダヤの神殿にささげるわけにはいきません。わざわざユダヤの貨幣に両替してささげたそうです。そこに強盗の巣となる問題があったのだろうか。
鳩が売られていたのは牛や羊をささげることの出来ない貧しい人たちのささげ物として売られていたのだと思います。貧しい人たちへの配慮のようにも理解できると思いますが、実情はそうでもなかったのかもしれません。強盗の巣と呼ばれなければならないような問題が潜んでいたのかもしれません。
この激しいイエスさまの姿は、普段のイエスさまの言動からは想像しずらいものです。追い出す、腰掛を倒す、強盗の巣と呼ぶ。近寄りがたい姿です。しかし驚くべきことにそういうイエスさまのもとに「目の見えない人たちや足の不自由な人たちがみもとに来た」のです。目の見えない人、足の不自由な人は、いずれも自らイエスさまのもとに行くことが難しい人たちだと思います。誰かに連れて行っていただかなければなりません。おそらく付き添いの人たちを動かしてまでイエスさまのもとに行こうとしたのだと思います。あるいは周りの人が連れて行こうと思ったということかもしれません。この激しいイエスさまの姿が、どうして彼らを惹きつけたのか。そこに癒しがあると信じたのか。
依然謎があると思いますが、一見近寄りがたいイエスさまの姿に、むしろ惹きつけられた、ということにこそ、キリスト教信仰の真実があるように思います。