静まりの時
- テーマ:教会の交わり
- 聖書箇所:使徒8・14~25
- 日付:2026年06月01日(月)
14 エルサレムにいる使徒たちは、サマリアの人々が神のことばを受け入れたと聞いて、ペテロとヨハネを彼らのところに遣わした。
15 二人は下って行って、彼らが聖霊を受けるように祈った。
16 彼らは主イエスの名によってバプテスマを受けていただけで、聖霊はまだ、彼らのうちのだれにも下っていなかったからであった。
17 そこで二人が彼らの上に手を置くと、彼らは聖霊を受けた。
サマリアの人びととは、ユダヤ人でありながらも歴史の中でユダヤ人と反目をもつことになった人びとです。そのサマリアの人びとが「神のことばを受け入れた」のです。ここに使徒の働き1章8節のお言葉が成就しました。
神のことばを受けれた、とは、16節に「主イエスの名によってバプテスマを受けていただけで」という文章から推測すると、イエスさまを信じた、ということだと思います。それを耳にしたエルサレム教会は、ペテロとヨハネをサマリアに遣わしました。エルサレムからやって来たペテロとヨハネがイエスさまを信じたサマリアの人びとに手を置くと、彼らは聖霊を受けました。
この記事を表層的に読むと、イエスさまを信じただけでは不十分であって聖霊を受けなければならない、ということになるかもしれません。そうなると聖霊を受けるとは一体どういうことか、ということに話しがすすみ、聖霊を受けるとは異言を語ることである、とか、霊的に恍惚状態になるといったことにもなるかもしれません。しかし果たして聖書はそういうことを語っているのだろうか。
ここで重要なことは、サマリアの人びとが聖霊を受けることになったのは、ペテロとヨハネが手を置いたことによるもの、という点です。ただ信仰的な偉人が手を置いたというのではなく、当時のキリスト教総本山であったエルサレムから遣わされた人が、手を置いた、のです。
このエルサレム教会は、あの聖霊降臨の日に聖霊が降り出発した最初の教会です。その教会から遣わされた人が手を置く、すなわち按手が行われると「聖霊を受けた」。彼らは聖霊を受けたのですが、聖霊を受けたことが具体的にどのようなことであったのかを聖書は語りません。
その代わりそれを目の当たりにした「シモン」という人が、その霊的な「権威」を自分も欲しいと願いお金を差し出すとペテロたちが厳しく叱責した、ということが記されています。この記事から聖職売買(saimony)という言葉が生まれました。これは聖職を金銭で売り買いすることの問題を語っているのですが、それとともに聖職を人間の力で左右しようとすることの問題が語られているように思います。神さまの権威を人間が左右するという問題は、信仰上あってはならない重大なものです。聖霊が降る、とか、聖霊を受ける、ということが人間の力によって左右できるかのように語られることは福音的ではないのです。
使徒2章において聖霊が降ったということを、教会では、教会が生まれた、教会の誕生日である、と教えられます。聖霊が降る、聖霊を受ける、ということは、教会の交わりに加えられる、教会の交わりにつながる、教会の宣教が前進するという意味と考えるべきではないか、と思います。つまりイエスさまを信じただけでいまだ聖霊を受けていなかった、ということは、個人的に聖書を読んでイエスさまを信じたけれども、いまだ教会とのつながりを持っていない状態であった、ということであり、そのような状態の人たちが聖霊を受けたということは、兄弟姉妹の導きによって、近くの教会につながり、父と子と聖霊のバプテスマを授かって、使徒信条によって告白されている公同の教会を信じる者とせられたということなのだと思います。個人主義的信仰から、共同体的信仰に変えられた、ということです。これはイエスさまがヨハネの福音書15章において、ぶどうの木と枝の譬えによって語られた「つながる」ということを現しているのだと思います。教会はイエスさまのお身体なのです。
こうしてサマリアに生まれたキリスト者の群れが、エルサレム教会のメンバーとなり、教会の宣教が前進していきました。反目していた二つのグループが、キリストを信じることにおいて、いわゆる組織的に一つとなって行くというユダヤの歴史上画期的なことが起こったのです。これが「聖霊を受ける」ということなのだと思います。
聖霊を受けた、聖霊に満たされた、ということが、ややもすると個人主義を助長し分裂を生み出してしまったキリスト教会の歴史を見ると、今一度聖霊を受けるということは、教会的キリスト教に成長するということ、交わりが回復させられるということ、人間的なことに終始することから変えられて神さまの前にへりくだる者となるということ、そのような理解を確かにしなければならないと思います。
教会の交わりの中にしっかりとつながっている人こそ、聖霊に満たされた人なのです。