主にある喜びは外的・内的な聖性にとって重要な助けです。喜びは信仰の業に励み、愛の業を行い、信仰の良き戦いを戦い抜き、永遠の命を保つことを強めてくれます。
ガラテヤの信徒への手紙3章11節
2013年8月2日(金)『心を新たに』~ウェスレーによる一日一生~
(編)A.ルシー、(訳)坂本誠
231頁
今喜びがありますか。主にある喜びがあるでしょうか。
信仰の業に励むために、主にある喜びが必要です。主にある喜びのない信仰の業は、もはや信仰の業ではありません。単なる人間の業です。
愛の業を行うために、主にある喜びが必要です。主にある喜びのない愛の業は、もはや愛の業ではありません。単に義務感からくる行いです。
信仰の良き戦いに戦い抜くためにも、主にある喜びが必要です。主にある喜びなしに信仰の戦いを戦い抜く姿は、物資の補給を軽視した中で戦いを強いられた旧日本軍の南方戦線のように現地調達型になりますので、空腹で戦いどころでなくなるか、略奪や普段食べないものまでも食べないではいられなくなります。主にある喜びのない信仰の戦いは遠かれ早かれ自滅します。
永遠の命を保つために、主にある喜びが必要です。永遠の命というのは、汲めども尽きることのない井戸水のように使っても尽きることのない命ということです。使命に生きると命を使うわけですから命がすり減ります。主にある喜びなくして使命に生きようとすると途端に燃え尽き症候群におちいるでしょう。主にある喜びなくして永遠の命を保つことは自らを欺く生き方となります。主にある喜びはすり減るどころかあふれ出る命に生きる力です。
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