聖ヨハネは外的な罪に対する同様の特権を主張しています。「神から生まれた人は皆、罪を犯しません。神の種がこの人の内にいつもあるからです。この人は神から生まれたので、罪を犯すことができません」(第1ヨハネ3章9節)。ある人はそれは習慣的に罪を犯さないことだと言うかもしれません。しかし、そのようなことは聖書の中には存在しませんし、いったいだれが神の言葉に変更を加えることができるでしょうか。
ローマの信徒への手紙6章14節
2013年6月14日(金)『心を新たに』~ウェスレーによる一日一生~
(編)A.ルシー、(訳)坂本誠
179頁
イエスさまを信じて新しく生まれた者はもう罪を犯すことがないとヨハネの手紙は語ります。
では今も罪を犯している私は新しく生まれていないのでしょうか。
一方ローマ人への手紙では罪が支配することはないと語ります。罪は犯すかもしれないけれども、その罪の支配の中にはないのだというのです。
罪の支配とはいったい何でしょうか。自分の犯した罪の支配の中に縛られているというのはどういった状態なのでしょうか。
私は、信仰と希望の愛、の中に生きるということなのではないかと思います。
これをヨハネの手紙の言葉に当てはめてみると、ヨハネの言う「もはや罪を犯さない」というのは大胆な言い方ですが、キリストにあるものは、その言動のすべてが、信仰と希望と愛、の中に生かされているということでしょうか。
罪を犯さないようにイエスさまから力をいただいて今日も歩みたいと思います。しかしそのような中にあっても、これは罪だったのではないかという後悔にさいなまれることがあります。そようなときにも、すべてのことを益としてくださる神さまは、私を、信仰と希望と愛に生かしてくださっているのです。
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