あなたがたのからだを、神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物として献げなさい。

静まりの時 ローマ12・1,2
日付:2024年02月28日(水)

1 ですから、兄弟たち、私は神のあわれみによって、あなたがたに勧めます。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物として献げなさい。それこそ、あなたがたにふさわしい礼拝です。
2 この世と調子を合わせてはいけません。むしろ、心を新たにすることで、自分を変えていただきなさい。そうすれば、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に喜ばれ、完全であるのかを見分けるようになります。

 「ふさわしい礼拝」。新共同訳では「なすべき礼拝」、共同訳2018では「理に適った礼拝」。イエスさまによって救われた者は、礼拝を献げます。神さまによって礼拝を献げる者としていただきました。礼拝といってもいろいろな礼拝がこの世にはある。私たちが思いつく礼拝もいろいろとあるかもしれない。しかしイエスさまに救われた者が献げるにふさわしい礼拝は、こうである。これ以外はふさわしくない。
 ではふさわしい礼拝とは何か。「あなたがたのからだを、神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物として献げなさい」。
 「からだ」を献げること。「神に喜ばれる」献げ物として献げること。「聖なる」献げ物として献げること。「生きた」献げ物として献げること。
 あまりふさわしくないけれども、それを何とかしてふさわしいものとして献げよ、というのではなく、イエスさまによって救われた者は、すべて、ふさわしい献げ物としていただきました。神さまに喜ばれるものとして、聖なるものとして、そして生きたもの、いのちに満ちたものとしていただいたのです。ですからそれを、そのままに献げる。
 私たちの問題は、せっかく神さまに喜ばれるもの、聖なるもの、生きたものとしていただいたにもかかわらず、そのようにささげないことにあります。相変わらず古い自分のままで献げようとするのです。
 相変わらず古いままに献げようとする。神さまに喜ばれるものでないかのように、聖なるものでないかのように、生きたものではないかのように献げてしまう。それらを自分で何とか、神さまに喜ばれるもの、聖なるもの、生きたものに見せかけようとして、献げようとする。それが問題なのです。
 精神だけではなく、身体全体をもって、すでに神さまに喜ばれるものとされている、聖なるものとされている、神さまによって新しいいのちをいただき生かされている、その喜びのままに神さまにお献げする。そのような礼拝こそ、救われた者にふさわしい礼拝です。

 礼拝によって祝福にあずかる、ということは一つの真実だと思います。しかしここで言われていることは、祝福されている者は、喜びの中で礼拝を献げることが、もっともふさわしい生き方である、ということです。

「この世と調子を合わせてはいけません。むしろ、心を新たにすることで、自分を変えていただきなさい。そうすれば、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に喜ばれ、完全であるのかを見分けるようになります。」(2)

「この世」。この場合は、神さまのお心に反する世界、という意味でしょう。この中には罪びとである「私」も含まれています。この世と調子を合わせない、それは、自分勝手な生き方をせよ、ということではありません。自分勝手な生き方は、自分という「この世」に調子を合わせているだけです。
 「心を新たにする」。そうして「自分を変えていただく」。キリスト者となった、ということは、心を新しくする、そうして自分を変えていただく冒険の旅に出発したのです。
 私たちには古い自分の延長線上に信仰生活を送ろうとすることがあるかもしれない。あるいは古い自分の自己実現のために、信仰を利用しようとすることさえ私たちにはあるかもしれない。
 心を新たにし、自分を変える。それは今までの私の心の方向を180度変えることです。それは自分の力ではできません。「変えていただく」のです。神さまに変えていただくのです。
 「そうすれば、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に喜ばれ、完全であるのかを見分けるようになります」。自分を変えないままでは、神さまの御心がなんであるのかを、人間は知りません。
 神さまの御心が分かったので、そのみこころにしたがって自分を変えようというのではありません。自分を変えることが先です。そうでないと御心は分からないのです。あるいは分かっていると思っていても、本当は分かっていない、分かったことになっていない。

 愛する神さまと共に歩む幸せな人生を送るのに、その神さまの御心を知らない、何が良いことで、神さまが喜んでくださるか、完全なことであるのかを知らない。あるいは知っているつもりでも、見当はずれなことになっている。それはたいそう不幸なことです。

 30年以上昔のことですが、ドライブに行く人たちの運転手としてお伴をしたとき、運転する私を気遣って、お菓子をせっせと私の口に運ぼうとしてくださった人がいました。運転で手が離せないので、大変嬉しいことでした。しかし運ばれるお菓子の中に、マシュマロ、があったのです。当時、マシュマロはあまり好きではありませんでした。しかし愛をこめて口に運んでくださるのに、断ることもできず、一所懸命に食していました。その方は、きっと自分はマシュマロが好きだったのでしょう。マシュマロが好きではない人もこの世界にはいる、ということを、心新たに知り、自分を変えようとしていただくとよかったと思います。ちょっと冗談めいたお話しですが・・・。

 私たちは神さまの御心を知らないのです。自分を変えて頂かない限り、かなり見当はずれなことをしているかもしれない。そんな謙遜さ。
 そんな謙遜さは、自分を献げていないと生まれて来ません。この世にどっぷりとつかっているなかで、この世に調子を合わせ、この世の最たるものである自分自身に調子を合わせていては、神さまの御心は分からないのです。
 まず献げること。自分の手から離すこと。そうして自分を変えていただく素晴らしい冒険の旅に出発します。