静まりの時 申命記6・4~9
日付:2024年02月29日(木)
4 聞け、イスラエルよ。主は私たちの神。主は唯一である。
5 あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。
6 私が今日あなたに命じるこれらのことばを心にとどめなさい。
7 これをあなたの子どもたちによく教え込みなさい。あなたが家で座っているときも道を歩くときも、寝るときも起きるときも、これを彼らに語りなさい。
8 これをしるしとして自分の手に結び付け、記章として額の上に置きなさい。
9 これをあなたの家の戸口の柱と門に書き記しなさい。
「聞け」。信仰の始まりは聞くことにあります。私が語ることにあるのではありません。そのことを明らかにするために、礼拝のプログラムに「招詞」を取り入れました。招きの言葉、と書きますが、礼拝に来た私たちはみな神さまによって招かれました。招いてくださったお方がおられる。その方が、よく来たね、待っていたよ、と呼びかけてくださる。その言葉を、私の「外」から語りかけられる言葉として聞く。まず聞く。礼拝はそうして始まり、そうしてこそまことの礼拝となります。
「ですから、信仰は聞くことから始まります。聞くことは、キリストについてのことばを通して実現するのです。」(ローマ10・17)
「主は私たちの神」。誰かの神ではない、この「私」の神であり、そして「私たち」の神である。「私たちの」の「の」は、所有を現していますから、私の所有しているものと読むことが出来ます。しかしさまざまな被造物であればそれも成り立つかもしれませんが、対象が「神」である限り、それは私が所有するということにはなり得ません。もし私が所有することが出来る存在であれば、それはもはや「神」ではありません。
ですから「私の神」といった場合、その対象が神である限り、私の方が神に所有されている、ということに結び付いています。
私よりも大きな存在を、所有する、とした場合、自分の手の中にそっくり入れることは出来ません。無限に広がるかのような大海原を自分の手の中にそっくり入れることはできません。むしろ大海原のほんの一部に身をしずめることによって、大海原のほんの一部を味わうことが出来るだけです。ましてや神さまはすべてを創造されたお方ですから、その神さまを「私の神」といった途端、私たちは、神さまの御手の中に抱かれているのです。
「私たちの神」。私だけの神ではなく、私の神であると同時に、共に生きる仲間の神でもあるということ。神さまは、共同体の神であるということ。私たちは「私たちの神」を信じているので、そこに個人の独善はゆるされません。私たち罪びとは、神さまを信じることにおいても、自己中心になることが出来ます。「私たちの」ということばは、私たちを自己中心から解放します。
「主の祈り」ではことごとく「我ら」と祈ります。その祈りには「私たちの負い目をお赦しください。私たちも、私たちに負い目のある人たちを赦します」(マタイ6・12)と、赦しの祈りがあります。「私たち」は仲良しグループではなく、その中には「敵」と見える他者も存在しています。礼拝で主の祈りを祈る私たちは、そこに赦しの場があることを信じています。
「主は唯一である」。唯一、というのは、多くの神々のある中で、唯一である、つまりナンバーワンであると語っているのではなく、オンリーワン、他にはいない、ということ。
ナンバーワンではなく、オンリーワンだからこそ、「愛する」ということが成り立ちます。
また唯一である、ということで、倫理が可能となります。神々、すなわち神が多数存在する中では、道徳や倫理の基準も数々存在することになります。しかし私たちは唯一の神さまを信じています。ですから唯一の神を信じる私たちの倫理基準は揺れ動く時代や環境の中にあって揺るぐことがありません。
5 あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。
数多くの神々の中から、その比較研究によって、「選んだ」神であるならば、そこには人格をお持ちの神を愛するということは成り立ちません。せいぜい「物質」を愛することにおいては成り立つかもしれません。しかし人格を持つ者を愛したということにはならないのです。恋焦がれることがあるかもしれません。しかしそれは「恋」ではあっても「愛」ではありません。恋は限りなく自己中心です。しかし愛は、自らを献げるものです。
この愛が真実の愛であろうとするならば、神さまは「唯一」でなければなりません。移り気な人間が、その限界のある判断力によって「選んだ」という神であるならば、常に他の神々を比較しながらのこととなります。しかし「他にはいない」ということがあって、その愛は真実の愛となるのです。
「私は、心が広く愛深いので、配偶者も愛しているが、同時に他にも同様にその愛を注いている人がいるのですよ」などという状態は、愛ではないのは明らかです。それは所有欲を満足させようとしているだけで、本当の愛ではありません。
6 私が今日あなたに命じるこれらのことばを心にとどめなさい。
7 これをあなたの子どもたちによく教え込みなさい。あなたが家で座っているときも道を歩くときも、寝るときも起きるときも、これを彼らに語りなさい。
8 これをしるしとして自分の手に結び付け、記章として額の上に置きなさい。
9 これをあなたの家の戸口の柱と門に書き記しなさい。
真実の愛であるならば、それはさまざまな形で、かたち、となって現れます。神さまがお語りになる「ことば」を「心にとどめること」、「子どもたちによく教え込むこと」、どんな時も「彼らに語ること」、「しるしとして自分の手に結び付け、記章として額の上に置くこと」「家の戸口の柱と門に書き記しすこと」。
文字通り申命記6章4節の言葉を、手に結び付け、額の上に置くということをユダヤの人びとはしておられるようですが、この「言葉」は、聖書全体の言葉であり、また何よりもみ言葉であるお方イエスさまご自身であると理解すべきでしょう。
「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。」(ヨハネ1・14)
私たちが、その手に、額に、戸口の柱と門に書き記さなければならないところですが、罪びとである私たちにはそれができませんでした。聖書は、その御言葉なるお方が、私のところにやって来てくださった、私たちのところに住んでくださった、と語ります。
そして私たちを神の子としてくださいました。
「御使いはまた、水晶のように輝く、いのちの水の川を私に見せた。川は神と子羊の御座から出て、都の大通りの中央を流れていた。こちら側にも、あちら側にも、十二の実をならせるいのちの木があって、毎月一つの実を結んでいた。その木の葉は諸国の民を癒やした。
もはや、のろわれるものは何もない。神と子羊の御座が都の中にあり、神のしもべたちは神に仕え、御顔を仰ぎ見る。また、彼らの額には神の御名が記されている。」
(黙示録22・1~4)