静まりの時 エペソ5・1~5
日付:2024年02月27日(火)
1 ですから、愛されている子どもらしく、神に倣う者となりなさい。
2 また、愛のうちに歩みなさい。キリストも私たちを愛して、私たちのために、ご自分を神へのささげ物、またいけにえとし、芳ばしい香りを献げてくださいました。
3 あなたがたの間では、聖徒にふさわしく、淫らな行いも、どんな汚れも、また貪りも、口にすることさえしてはいけません。
4 また、わいせつなことや、愚かなおしゃべり、下品な冗談もそうです。これらは、ふさわしくありません。むしろ、口にすべきは感謝のことばです。
5 このことをよく知っておきなさい。淫らな者、汚れた者、貪る者は偶像礼拝者であって、こういう者はだれも、キリストと神との御国を受け継ぐことができません。
新改訳では書簡名がエペソ人への手紙と付けられていますが、新共同訳や共同訳2018では、エフェソの信徒への手紙と付けられています。「信徒への手紙」とすることによって、この手紙が「信徒」に対して書き送られた手紙である、ということを明確にしています。
おおよそ新約聖書は、信徒に向けて書かれたものです。エペソという町に生まれた教会に、その教会に生きた人びとに向かって語られたことば。イエスさまを信じて、イエスさまの救いにあずかった人びとに向かって語られたことば。
すでにイエスさまを信じて教会生活を何年も送っている人たちに向かって、「神に倣う者となれ」「愛のうちに歩め」「聖徒にふさわしく」「淫らな行いも」「どんな汚れも」「貪りも」してはいけない。口にすることさえしてはいけない。
「わいせつなこと」「愚かなおしゃべり」「下品な冗談」もしてはいけない。「淫らな者」「汚れた者」「貪る者」は「偶像礼拝者」である、神さまを礼拝しているのではない。そういう者は「キリストと神との御国を受け継ぐことは出来ない」と語っています。
教会の中に、イエスさまを信じて礼拝生活をしている人たちに、奉仕をし、証しをしている人たちに、語っているのです。語らなければならない状態があったのです。驚くべきことです。
1 ですから、愛されている子どもらしく、神に倣う者となりなさい。
2 また、愛のうちに歩みなさい。キリストも私たちを愛して、私たちのために、ご自分を神へのささげ物、またいけにえとし、芳ばしい香りを献げてくださいました。
神に倣う者となる、ということは、神のようになる、ということではありません。神さまが、ご自身を十字架にかけるほどの愛をもって私たちを救い出してくださったことに、ふさわしく応答する者となりなさい、ということです。
私たちは神さまに愛されている神さまの子どもです。だからこそそれにふさわしく生きる。それは、愛のうちに歩むこと、です。神さまの愛に支えられ、励まされて生きること。イエスさまの十字架を忘れない。そして復活の主を見失わない。
では、神に倣う者とは具体的にどのような歩みをするのか。生き方をするのか。
3 あなたがたの間では、聖徒にふさわしく、淫らな行いも、どんな汚れも、また貪りも、口にすることさえしてはいけません。
4 また、わいせつなことや、愚かなおしゃべり、下品な冗談もそうです。これらは、ふさわしくありません。むしろ、口にすべきは感謝のことばです。
5 このことをよく知っておきなさい。淫らな者、汚れた者、貪る者は偶像礼拝者であって、こういう者はだれも、キリストと神との御国を受け継ぐことができません。
神に倣う者とは、どういうものであるのかを明らかにするために、神に倣わない者とはどういうものであるのか、が記されています。
「淫らな行い」「あらゆる汚れ」「貪り」「わいせつなこと」「愚かなおしゃべり」「下品な冗談」。
いわゆる上品ぶった言動が勧められているのではありません。倫理道徳的な逸脱を完全否定しているのです。神の愛に生かされているならば、このような生き方をするはずがない、というのです。
ただこれには、少なからず文化の影響があります。聖書にも書かれていますが、口づけをもって挨拶をするということが、男女を問わず一般的である国があります。しかし日本では、それは破廉恥なことです。倫理道徳的に淫らなことです。ミニスカートに抵抗のない国があります。しかしイスラム圏では、死刑にも値することでしょう。飲酒もイスラム圏では法律違反となることもあるのではないか。
また文化というのも国に限らず、個人の歴史にも深くかかわっています。ギャンブル依存の家族を抱えた苦しみを戦っている人のまえで、パチンコや競馬の世間話をするのはどうか。不倫のすえに家族が崩壊した痛みや悲しみを抱いている人の前で、芸能人のスキャンダルを面白おかしく語ることはどうか。
何が淫らな行いなのか。汚れなのか。貪りなのか。わいせつなことなのか。愚かなおしゃべりなのか。下品な冗談なのか。自分の文化だけではそれを知るのに限界がある。相手のことや、場の空気をしっかりと読んで、想像力を働かせていかないと、何気ない言葉がこれらに当てはまる可能性がある。
こうして、教会はかなり倫理的に高い基準を持つところ、様々に配慮をするところ、そのために厳しくしつけられるところとなって行きました。
ただだれも完全になることは出来ませんので、少なくとも、自分の語ることはスタンダードではない、ということをわきまえている謙虚さと、自分の考えや感じ方と違うな、という言葉に出会った時には、赦しあうことがあればよいのではないか、とも思います。自分の正義(かなりエキセントリックでおかしな)を振りかざして、誰かに忠告を与えている、ということは愚かで恥ずかしいことですね。
「むしろ、口にすべきは感謝のことばです」
淫らな言葉、を語らない。むしろふさわしいのは感謝の言葉である。淫らな言葉と感謝の言葉が相対して書かれています。
この二つは一見、相対するもの、対極にあるものではないような感じがします。
しかしなぜ淫らな言葉を語ろうとするのか。ただ知恵や知識が足りなくてうっかり語ってしまうというのではなく、語らずにはおれない、汚れたことや、貪欲、わいせつなこと、愚かなおしゃべりに興じなければいられないのはなぜか。なぜ下品な冗談を言わなければいられないのか。ちょっとぐらい倫理道徳的にアレなことのほうが、信仰生活の堅苦しさを緩和するので良いのではないか、などと言い訳するのか。ちょい悪の方がかっこいいとうそぶくのか。
それは、自分の人生に満足していないからではないか。自分自身を受け入れられていないからではないか。
それに対して感謝するということは、何か感謝すべきことを感謝するというのではなくて、たとえ感謝することのできないようなことの中にあっても感謝する。それはあらゆることを「オーケー」とする、満足する、ということです。
神さまを信じるということ。神さまに愛されていることを信じること。その神さまの愛に根ざして生きるということ。それは、すべてのことを、オーケーとすること。そうして感謝すること。それは、神さまが成してくださったことを感謝することもそうですが、それ以上に、神さまご自身を感謝すること。
先日子どもの一人が、妻にチョコレートを贈って来てくれました。バレンタインということもあるかもしれません。ネットで調べると、直径2センチほどの一粒が300円するチョコの詰め合わせで、たいそう高価なものでした。それで、包丁で小さく切り分けで少しずつ食べています。そういう時に、チョコレートへの感謝も、チョコレートを贈ってくれたという行為への感謝もありますが、何よりも、そのような子どもの存在自体を感謝することです。
それと同じように神さまに感謝するという時、神さまが成してい下さったことへの感謝も大切ですが、それ以上に神さまご自身への感謝。極端に言うと、何も成さなくても、ただ居て下さる、ということへの感謝。もちろん十字架と復活に置いて、計り知れないことをなしてくださったお方なので、その行為に感謝することも大切なのですが、人格と人格との間における愛が信仰であるとするならば、ただ神さまが今日もともにいて下さることへの感謝。神さま、今日もあなたが共にいて下さって感謝です、と祈る。
それは私のすべてが満たされているとの信仰から生まれるものです。自分の何かが足りない、不足している、満たされていないならば、その口から出てくることは、淫らなことや汚れとなって当たり前なのだと思います。
感謝というのは、神さまの愛に満たされている信仰から生まれるものであると同時に、感謝の言葉を語ることによって、逆に、神さまの愛に満たれていくということも起こります。感謝すべきことが何もないと思い込んでしまうところにあって、しかし感謝して生きる。感謝を選び取って生きる。そういう人生の選択をしていくと、不思議に、感謝に満たされていくということも起こります。不思議なものです。
きょうも感謝を選び取って生きていきたいと思いました。