あなたがたの間で先頭に立ちたいと思う者は、皆のしもべになりなさい

静まりの時 マルコ10・35~45
日付:2024年02月26日(月)

35 ゼベダイの息子たち、ヤコブとヨハネが、イエスのところに来て言った。「先生。私たちが願うことをかなえていただきたいのです。」
36 イエスは彼らに言われた。「何をしてほしいのですか。」
37 彼らは言った。「あなたが栄光をお受けになるとき、一人があなたの右に、もう一人が左に座るようにしてください。」
38 しかし、イエスは彼らに言われた。「あなたがたは、自分が何を求めているのか分かっていません。わたしが飲む杯を飲み、わたしが受けるバプテスマを受けることができますか。」
39 彼らは「できます」と言った。そこで、イエスは言われた。「確かにあなたがたは、わたしが飲む杯を飲み、わたしが受けるバプテスマを受けることになります。
40 しかし、わたしの右と左に座ることは、わたしが許すことではありません。それは備えられた人たちに与えられるのです。」
41 ほかの十人はこれを聞いて、ヤコブとヨハネに腹を立て始めた。
42 そこで、イエスは彼らを呼び寄せて言われた。「あなたがたも知っているとおり、異邦人の支配者と認められている者たちは、人々に対して横柄にふるまい、偉い人たちは人々の上に権力をふるっています。
43 しかし、あなたがたの間では、そうであってはなりません。あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、皆に仕える者になりなさい。
44 あなたがたの間で先頭に立ちたいと思う者は、皆のしもべになりなさい。
45 人の子も、仕えられるためではなく仕えるために、また多くの人のための贖いの代価として、自分のいのちを与えるために来たのです。」

 「ゼベダイの息子たち、ヤコブとヨハネ」。この二人はイエスさまの公生涯の初めから弟子として召され、様々な場面でイエスさまのお伴をすることになった人たちです。その彼らが、イエスさまのところにやって来て一つの願いをしました。「あなたが栄光をお受けになるとき、一人があなたの右に、もう一人が左に座るようにしてください」。

 イエスさまが栄光をお受けになるとき、つまり昇天され天の御座に着座される、その時に自分たちを、あなたの右に左に座らせてほしい。そう願ったのです。
 あなたが社長になられたときに、副社長にしてください。病院長になられたときに、副委員長の座をお願いします。校長になられたあかつきには、私をその側近に置いてください。総理大臣になられたときには、ひとつ副総理大臣の席をお願いします。センターを取られたら、私はその隣にお願いします。そんな願いです。実務者としての立場を願っているならば、忙しくなるだけですが、権力と名声、経済力を求めているのです。そのために、ひたすら大きな声では言えない方法で、その願いを実現するために暗躍している。なんとも醜い姿です。
 しかしそんな願いをすることが出来るのは、よほどイエスさまとの距離感がない、あるいはそんな願いさえ聞いてくださるイエスさまだ、との思いがある。その思いは、確かに醜いものであり、大きな声では言えないことかもしれない。子どもがおねだりをしているような甘えた願いかもしれない。しかしイエスさまはそんな願いをも聞いてくださるのではないか。それが彼らの心にあったことなのだと思います。
 醜い願いであり、自己中心的な願いであることは、どこか理解している。しかしそれを願う心が自分にはある、どうすることもできない権力欲、支配欲が自分の中にはある、それをありのままにイエスさまに願い出るほどに、この二人の弟子は、イエスさまとの距離感を持っていない。
 私はそのようなイエスさまとの近い関係を持っているだろうか。どこかかしこまって、イエスさまの前でいい子を装っているのではないか。あるべき信仰の姿、人びとから称賛されるような信仰の態度を繕っているのではないか。そんな装いや繕いがあるならば、イエスさまとの間に距離を置いてしまっていることなのではないか。
 この二人の弟子の願いはほめられたものではありません。しかしその子どものように願う姿に、学ぶところがあるのではないだろうか。

 さて、イエスさまはそんな二人の弟子の願いをどのように聞かれたのか。けしからん、そんな願いをするなどとはいったい今まで何を学んできたのか、もう一度一からやり直して来い、などとイエスさまは言われませんでした。驚くべきことにそれを、受け止めてくださるのです。
 受け止めてくださる。しかし受け入れてくださったわけではありませんでした。受けて、しかし、止めておかれます。そして言われたのが

38 しかし、イエスは彼らに言われた。「あなたがたは、自分が何を求めているのか分かっていません。わたしが飲む杯を飲み、わたしが受けるバプテスマを受けることができますか。」
39 彼らは「できます」と言った。そこで、イエスは言われた。「確かにあなたがたは、わたしが飲む杯を飲み、わたしが受けるバプテスマを受けることになります。
40 しかし、わたしの右と左に座ることは、わたしが許すことではありません。それは備えられた人たちに与えられるのです。」

 まず、自分たちが何を求めているのか分かっていない、と言われました。栄光の座とは、昇天の後のことだけではなく、十字架でもあるのだよ、そんな苦しみを受けることが出来るのか。彼らは、できます、と答えます。知らないということは、恐ろしいことです。知ら居ない者の姿は、悲劇であり喜劇です。
 そんなとんでもない彼らの態度にも、イエスさまのお優しい姿は変わりません。あなたがたの願うことは、私に決定権があることではない。そういわれたのです。
 まことの神さまであるお方が、自分には決定権がない、と語られるのです。すべてを支配しているお方が、その支配の手を委ねておられるのです。ここに、まことに仕える者の姿があるように思います。仕える、ということは、支配しない、コントロールしないということです。

 ほかの十人はこれを聞いて、ヤコブとヨハネに腹を立て始めた、というのですから、この二人だけが特別だったのではありません。結局、弟子たちの中には、だれが一番偉いのか、ということが渦巻いていたのです。そんな弟子たちを全員呼び寄せて言われました。

42 そこで、イエスは彼らを呼び寄せて言われた。「あなたがたも知っているとおり、異邦人の支配者と認められている者たちは、人々に対して横柄にふるまい、偉い人たちは人々の上に権力をふるっています。
43 しかし、あなたがたの間では、そうであってはなりません。あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、皆に仕える者になりなさい。
44 あなたがたの間で先頭に立ちたいと思う者は、皆のしもべになりなさい。
45 人の子も、仕えられるためではなく仕えるために、また多くの人のための贖いの代価として、自分のいのちを与えるために来たのです。」

 偉くなりたい、先頭に立ちたい。そんな願いを持つこと自体、否定されなければならないことだと私は思います。しかしイエスさまはそれを否定されません。人間の性(さが)、あるいは弱さ、といってもよいともいますが、それを見抜かれつつ、否定されるのではなく、受け止められるのです。
 イエスさまが十字架につかれることになったいきさつには様々なものがありますが、その大きな一つのことは、ときの宗教家たちからのねたみでしょう。ことばを変えるならば、誰が一番偉いか。私たちこそ、一番偉い。私こそ先頭に立つべきである。あのイエスではない。なのに、実際を見ればあのイエスがまるで民の先頭にあっているように見える。そんなものは殺してしまえ。それが、イエスさまが十字架につかれることになったいきさつです。
 偉くなりたい、先頭に立ちたい、支配されるのはまっぴらだ、私が支配するのだ、支配者は私だ。そんな思いがイエスさまを十字架につけたのです。

 イエスさまは、もしそんな思いがあるならば、それを捨てされ、とは言われません。もしそんな思いがあるならば、むしろ仕える者になりなさい、しもべになりさない、と言われました。

 偉くなりたい、先頭に立ちたい、という思いは、結局のところ、そうして幸せになりたいとの願いであろう。もし本当の幸せに生きたいならば、むしろ仕える者、しもべになりなさい。そうすれば、本当に幸福な人生が築かれるのだ、と、しもべの幸福へと招いてくださったのです。

 木登りをすると、高く登れば上るほど、その木は登る者の体重で不安定となり揺れ始めます。いったん揺れ始めると、バランスを取ろうとして、微妙な体重移動をしなければならなくなります。それでも木は揺れ続けますので、なんとも平安のないこととなります。
 どっしりとして揺れない木は、その張り出した枝の何十倍もの根を張っています。鞍馬山に行った時に、木の根道、というのを見たのですが、深く根を張ることのできない岩地では、根がしっかりと岩をつかんでいます。安定して上に伸びる木は、根を深く張っているか、あるいは根がしっかりと岩をつかんでいるか。いずれも、下に伸びる根が重要なのです。イエスさまのお心深くに、自らの根を下ろし、あるいはまことの岩であるイエスさまをしっかりとつかみ、そうしてこそ平安に生きることができます。

 幸せに生きるために、そのために上に伸びたいと願うならば、それ以上に下に伸びる、仕える者となる、しもべとなる。偉くなりたいので表面的に仕える姿を装うのではなく心の底から仕える者となり、しもべとなる。

 形としては誰かに仕える者となる、誰かのしもべとなる、というところに現れるのだと思いますが、しかしそれが誰かの支配の中に入るということでは、その誰かの支配欲を満足させるだけのことです。私たちは、ともにイエスさまに仕える者、ともにイエスさまのしもべとなるのです。
 時折、牧師や伝道者が仕える人で、集う者は仕えられる人という教会があります。またその逆もあります。不健康で不健全な教会の姿だと思います。健康な教会、成長の力に満ちている教会は、互いに仕える者たちが集っています。
 誰かに仕えているように見えるかもしれない。けれども、実はイエスさまにお仕えしている。ですから人との関係における共依存的なものではなく、いつもそこの聖霊さまの風が吹いている。ともにイエスさまに仕えるしもべ仲間であることを見失わない。自分の仕える道にも限界や限度、あるいは節度を見失わない。仕える人にとっての神にはならない。

 相談をいただいたときに、けっして自分が解決してあげようとしない。ともに祈る。ともにイエスさまの方向を見る。それがまことに仕える者、しもべの姿です。
 そんな教会でありたいですね。

1 ですから、キリストにあって励ましがあり、愛の慰めがあり、御霊の交わりがあり、愛情とあわれみがあるなら、
2 あなたがたは同じ思いとなり、同じ愛の心を持ち、心を合わせ、思いを一つにして、私の喜びを満たしてください。
3 何事も利己的な思いや虚栄からするのではなく、へりくだって、互いに人を自分よりすぐれた者と思いなさい。
(ピリピ2章)