静まりの時 マルコ10・17~22
日付:2024年02月24日(土)
17 イエスが道に出て行かれると、一人の人が駆け寄り、御前にひざまずいて尋ねた。「良い先生。永遠のいのちを受け継ぐためには、何をしたらよいでしょうか。」
18 イエスは彼に言われた。「なぜ、わたしを『良い』と言うのですか。良い方は神おひとりのほか、だれもいません。
19 戒めはあなたも知っているはずです。『殺してはならない。姦淫してはならない。盗んではならない。偽りの証言をしてはならない。だまし取ってはならない。あなたの父と母を敬え。』」
20 その人はイエスに言った。「先生。私は少年のころから、それらすべてを守ってきました。」
21 イエスは彼を見つめ、いつくしんで言われた。「あなたに欠けていることが一つあります。帰って、あなたが持っている物をすべて売り払い、貧しい人たちに与えなさい。そうすれば、あなたは天に宝を持つことになります。そのうえで、わたしに従って来なさい。」
22 すると彼は、このことばに顔を曇らせ、悲しみながら立ち去った。多くの財産を持っていたからである。
「多くの財産」を持っていた「一人の人」がイエスさまのところに「駆け寄り」「み前にひざまずいて」問いました。良い先生、永遠のいのちを受け継ぐには「何をしたら」よいか。
イエスさまのお答えの一つは、なぜわたしを『良い』と言うのか。良いお方は神さまお一人だけである。読みようによっては、わたしは神ではない、といっておられるようにも読めますが、聖書全体がイエスさまが旧約聖書に現されているヤーゥエの神ご自身であることを語っていますので、そういう意味ではありません。イエスさまはまことの神であり、まさに「良い」お方です。“goodness of God” ですね。(ぜひユーチューブで検索してみてください。先月から練習を始めました)。
そうすると、なぜあなたはわたしを良いというのか、というイエスさまの答えは、わたしは良いお方ではない、という意味ではなく、あなたはわたしのことを良いと言っているね。良いお方は確かにお一人だけである、そのお一人だけであるお方と、わたしとを等しくとらえている、あなたはわたしをまことの神と見抜いているのだよ、と言っておられるように思います。
ですからこれに続いてイエスさまは言われます。あなたが良いと知っているその神が語られた「戒めはあなたも知っているはずです。『殺してはならない。姦淫してはならない。盗んではならない。偽りの証言をしてはならない。だまし取ってはならない。あなたの父と母を敬え。』」、それらを行なっているならば、大丈夫、安心したらいい、あなたは確かに永遠のいのちをいただいている、その確信に生きて行けばよいではないか。そう語られたのだと思います。
しかしこの「一人の人」はなお問います。
その人はイエスに言った。「先生。私は少年のころから、それらすべてを守ってきました。」(20)
先生、私は少年のころから、それらをすべて守って来ました。自分なりには精いっぱいやってきたつもりです。しかしいまだ私には平安がないのです。永遠のいのちに生かされている確信が持てないでいるのです・・・。
戒めはすべて守っている、という言葉を、高慢の故の言葉、と理解されることも多いかもしれませんが、私には、精いっぱい生きたけれども、どうしても心に平安を持つことのできない、切なる飢え渇き、を感じるのですが、いかがでしょうか。
聖書に書いている通りに生きれば、それで永遠のいのちを確信して、胸を張って生きて行けばよいのです。聖書は神さまのおことばなのですから。その良いお方が語られた確かな言葉なのですから。隣人を愛せ、と書かれているので、隣人への愛に生きれば、それで、私には永遠のいのちがあると、心安んじていればよいのです。安息日を守れ、と聖書の書いているので、安息日を守っていれば、それで永遠のいのちを確信していればよいのです。
多くの人がそうして生きている。しかしそういう中にあって、この「一人の人」は確信が出来なかった。誰よりも深く自分自身の心を見つめて、そこに平安がない事を感じていた。それを見過ごしにも、ゆるがせにもできなかった。おそらく多くの人に尋ねたでしょう。一所懸命に律法に生きているにもかかわらず平安がないのです。どうすればよいでしょう。返ってくる答えは、おそらく、律法の守り方がまた足りないのだ、より一層励みなさい、本当に律法をすべて守っているのか。偽っているのではないか、などなど。自分の飢え渇きにまっすぐに答えてくれる人に出会うことが出来なかったのだと思います。
イエスさまはそんな「一人の人」に答えてくださいます。
イエスは彼を見つめ、いつくしんで言われた。「あなたに欠けていることが一つあります。帰って、あなたが持っている物をすべて売り払い、貧しい人たちに与えなさい。そうすれば、あなたは天に宝を持つことになります。そのうえで、わたしに従って来なさい。」(21)
より一層律法の励めと言われたのではありません。今まで「得る」「手に入れる」という生き方から180度方向変換をして、持っている物を売り払う、手放す、貧しい人たちに与える、得るのではなく与える、手に入れるのではなく手放す、そういう生き方をしてごらん、とイエスさまは招いてくださいました。
一所懸命に聖書の言葉に生きてなお平安が得られない「一人の人」。イエスさまはその一人の人を「いつくしんで」くださいます。愛してくださいます。手に入れる人生から、手放す人生へ方向変換してみればどうか。一所懸命に自分の為したことを数えているようだが、そういうことから解放されてみてはどうか。右の手がしていることを左の手に知られないようにしてはどうか。「そうすれば、あなたは天に宝を持つことになる」。
すると彼は、このことばに顔を曇らせ、悲しみながら立ち去った。多くの財産を持っていたからである。(22)
少ししか持っていない者には、手放すことはたやすいことかもしれませんが、多くの財産を持っている者にとっては、手放すことは難しいものです。あるいは客観的な量では少ないかもしれないが、執着の度合いが大きいならば、やはり手放すことは難しい。
しかしそういう執着から自由になれば、天に宝を積むことができる。心軽やかに生きることが出来る。いつまでも尽きることのないいのちに生きることが出来るのです。
「私は裸で母の胎から出て来た。
また裸でかしこに帰ろう。
主は与え、主は取られる。
主の御名はほむべきかな。」(ヨブ記1・21)