静まりの時 マタイ13・44~50
日付:2024年02月21日(水)
44 天の御国は畑に隠された宝のようなものです。その宝を見つけた人は、それをそのまま隠しておきます。そして喜びのあまり、行って、持っている物すべてを売り払い、その畑を買います。
45 天の御国はまた、良い真珠を探している商人のようなものです。
46 高価な真珠を一つ見つけた商人は、行って、持っていた物すべてを売り払い、それを買います。
「天の御国」。神さまがご支配されること。神さまの御手の中に安んじていつも新しく生きること。それは「畑に隠された宝」「良い真珠」「高価な真珠」のようなものです。何にも代えがたい尊いもの、どんな犠牲を払っても手に入れたいもの、すべてに優先されるものです。
しかしそれは「隠された宝物」です。おおよそ宝物とは見えないもの、この世界からは取るに足りないもの、まったく価値を見いだすことのできないものです。
罪が赦され永遠のいのちがいただけた、ということ。それがいったいどんなに尊いことであるのか、何にも代えがたいこと、どんな犠牲を払っても手に入れたいものと考えているのか。
それよりも、もっと目に見えるもの、あるいはこの世から見て価値があるとされるものを追い求めようとしているのではないか。「キリストには代えられません、世の何ものも」と歌うように生きているだろうか。
47 また、天の御国は、海に投げ入れてあらゆる種類の魚を集める網のようなものです。
48 網がいっぱいになると、人々はそれを岸に引き上げ、座って、良いものは入れ物に入れ、悪いものは外に投げ捨てます。
49 この世の終わりにもそのようになります。御使いたちが来て、正しい者たちの中から悪い者どもをより分け、
50 火の燃える炉に投げ込みます。彼らはそこで泣いて歯ぎしりするのです。
天の御国。神さまの御支配のなかに生きる教会生活、信仰生活は「あらゆる種類の魚を集める網のようなもの」。玉石混交、善も悪もいっしょくたに集まっている。それが教会であり、またそれぞれの信仰生活である。それが神さまの御支配の中に生きる者の人生である。
確かに二千年のキリスト教会を見ると、これが教会の姿であろうか、これが愛を語る教会がすることなのだろうか、と思わされることが出てきます。侵略としか言えないのではないかと思われる十字軍も、祈りをもって始まってしまいました。純粋な信仰共同体を求めて行きついた新天地アメリカ大陸において、信仰の名のもとに数々の虐殺が行われました。ナチスドイツの蛮行にも、宗教改革者ルターのことばが引用されたことがあるとか。
私たちの信仰生活を振り返ってみても、洗礼を受けたキリスト者だからといって手放しで賞賛できる人物ばかりではありません。キリスト者よりもそうでない人たちのなかに、よっぽど常識があり賞賛されるべき人物がいます。自分の信仰生活を考えても、これがキリスト者たるもののすることだろうかと、恥ずかしくなるようなこともたくさんしてきました。「あらゆる種類の魚を集める網のようなもの」なのです。
しかし「網がいっぱいになると、人々はそれを岸に引き上げ、座って、良いものは入れ物に入れ、悪いものは外に投げ捨てます。この世の終わりにもそのようになります。御使いたちが来て、正しい者たちの中から悪い者どもをより分け、火の燃える炉に投げ込みます。彼らはそこで泣いて歯ぎしりするのです」。
かならず審判の時がやって来る。神さまは悪を見過ごしにされるお方ではない。そのことをわきまえているのもまた、天の御国、神さまの御支配の中に生きる者の姿である、といいます。
いま語ろうとする言葉、為そうとすることも、神さまのまえにさばかれるべきものです。審判の対象とならないものは何一つありません。
ですから、自らの言動を戒めつついきる。また共に生きる隣人たちの言動をまことのさばき主である神さまの御手に委ねつつ生きるのです。