本当にこのわたしのために断食したのか

静まりの時 ゼカリヤ7・1~14
日付:2024年02月15日(木)

1 ダレイオス王の第四年、第九の月、すなわち、キスレウの月の四日に、ゼカリヤに主のことばがあった。
2 そのとき、ベテルは主の御顔を求めるために、サル・エツェルとレゲム・メレクおよびその従者たちを遣わして、
3 万軍の主の宮に仕える祭司たちと、預言者たちに尋ねた。「私が長年やってきたように、第五の月にも、断食をして泣かなければならないでしょうか。」
4 すると、私に次のような万軍の主のことばがあった。
5 「この国のすべての民と祭司たちにこう言え。
 この七十年の間、あなたがたが、
 第五の月と第七の月に断食して嘆いたとき、
 本当にこのわたしのために断食したのか。
6 あなたがたが食べたり飲んだりするとき、
 食べるのも飲むのも、
 自分たちのためではなかったか。
7 エルサレムとその周りの町々に人が住み、平和であったとき、またネゲブやシェフェラに人が住んでいたとき、主が先の預言者たちを通して告げたことばは、これらのことではなかったのか。」
8 それから、ゼカリヤに次のような主のことばがあった。
9 万軍の主はこう言われる。
 「真実のさばきを行い、
 誠意とあわれみを互いに示せ。
10 やもめ、みなしご、
 寄留者、貧しい者を虐げるな。
 互いに対して、心の中で
 悪を企むな。」
11 ところが、彼らは拒んでこれを聞こうともせず、肩を怒らせ、その耳を鈍くして聞き入れなかった。
12 彼らは心を金剛石のようにし、万軍の主がその御霊によって先の預言者たちを通して送られた、みおしえとみことばを聞き入れなかった。そのため、万軍の主から大きな御怒りが下った。
13 「彼らは呼ばれても聞かなかった。そのように、彼らが呼んでも、わたしは聞かない──万軍の主は言われる──。
14 わたしは、彼らを知らないすべての国々に彼らを吹き散らした。この地は、彼らが去った後荒れすたれ、行き来する者もいなくなった。こうして彼らはこの慕わしい国を荒れすたらせた。」

 謎の人物「ベテル」の問いに答える形で、預言者ザカリヤに語られた主の言葉。まことの断食とは何であるのか。真実の断食とは、神さまのための断食である。70年もの間、欠かさず行ってきた断食は、真実の断食であったのか。あなたがたが行ってきた断食は、神さまのためではなく、自分たちのためだったのではないか。
 いくら断食をしても、かたや、裁きがまげられ、社会的な弱者が虐げられているならば、そうして心の中で悪を企んでいるならば、その断食は真実の断食ではない。いままでも語って来たではないか。にもかかわらずあなたがたは聞き入れなかった。だからあなたがたは、この約束の地から出て行くことになり、この地は荒れ地となる。

 神の民が、神さまのために生きることを止めた時、神の民が神さまから委ねられた地に荒廃がもたらされる。世界の荒廃は、神の民がいかに信仰に生きるかにかかっている、とも読めるところです。

 さて、断食が真実の断食とならないのは、それが「自分たちのため」になされることによってある、と聖書は語ります。真実の断食となるためには、それが神さまのためになされなければならない。
 神さまのために為す断食とは、具体的にどのようなものであるのか。それは、単に食を断つ、ということではなく、その生き方そのものが問われることである。神さまを愛する生き方、それはそのまま隣人への愛に生きる生き方と実を結んでいく。それが真実の断食である。

「本当にこのわたしのために断食したのか。
 あなたがたが食べたり飲んだりするとき、
 食べるのも飲むのも、
 自分たちのためではなかったか。」

 「断食」すなわち食を断つことと「食べること飲むこと」が並列に置かれています。食を断つことは、また食を得ることと深く結びついている。食を断つのが自分たちのためでしかないならば、食するということも自分たちの為に終始してしまう。しかしもし食を断つということを神さまの為にするならば、食を得るということもその目的が神さまとなる。食を断つことは、まさに生きることと深く結びついているのです。

「私たちの日ごとの糧を、今日もお与えください。」(マタイ6・11)

 私たちが主の祈りにおいて祈るこの祈りは、日々食するものが神さまからのものであることを明確に告白しています。

彼らは結婚することを禁じたり、食物を断つことを命じたりします。しかし食物は、信仰があり、真理を知っている人々が感謝して受けるように、神が造られたものです。神が造られたものはすべて良いもので、感謝して受けるとき、捨てるべきものは何もありません。神のことばと祈りによって、聖なるものとされるからです。
(第二テモテ4・3-5)

 食物はすべて神さまが造られたものです。いったい何のために造られたのか。それは「信仰があり、真理を知っている人々が感謝して受けるように」造られたものである。感謝は、ただありがたいことであるといった倫理道徳的な生き方を語っているのではなく、明確にその対象があります。すなわち神さまへの感謝を捧げることです。私たちは、ただ感謝するという生き方に招かれているのではなく、神さまへの感謝を捧げるように招かれているのです。それは別の言い方をするならば、神さまとの交わりをいただくために、食物は神さまによって造られた、ということなのです。
 人間が神さまによって造られた目的は、神さまのとの豊かな交わりに生きることです。神さまはご自身と愛し愛されながら生きる存在として私たちを造られました。その愛の営みが豊かになされる一つの道として、食卓、を備えられたのです。そのために食物を創造されました。神さまは全能者ですから、私たちを造るときに、食物など得ないでも生きることが出来る永久機関のように造ることもできたはずです。しかしそうはなさいませんでした。食物を得なければ生きることが出来ない存在として創造されたのです。創世記1章を読むと、人間はあらゆる被造物の最後に、その冠のように造られています。神さまは人間が生きる世界をきちんと整えたうえで、つまり食物を造られたうえで人間をつくってくださったのです。もしこの順序が逆であれば、人間は造られた途端に死滅してしまいます。

 食材という被造物は、神さまと人間が豊かな交わりをするための大切な神さまの創造物です。そのことを忘れてしまう。すなわち神さまへの感謝を捧げることのないなかで食物が摂取されるとすれば、神さまはちょっと寂しいのではないでしょうか。
 交わりを目的に食卓に招かれたとして、お訪ねした先で挨拶も早々にいきなり食卓に着き用意された食事にがっつき、おなかが膨れれば、何の挨拶もなしに帰って行ってしまうとすれば、何と失礼なことでしょう。

 『日々の祈り』(カトリック中央協議会発行)から祈りの言葉を拾ってみましょう。

〔食前の祈り〕
父よ、あなたのいつくしみに感謝してこの食事をいただきます。
ここに用意されたものを祝福し、
わたしたちの心と体を支える糧としてください。
わたしたちの主イエス・キリストによって。アーメン。

〔食後の祈り〕
父よ、感謝のうちにこの食事を終わります。
あなたのいつくしみを忘れず、
すべての人の幸せを祈りながら、
わたしたちの主イエス・キリストによって。アーメン。

 静まりの会でお世話になる修道院の食堂の机にもこの祈りが書かれたカードが貼ってあります。みなプロテスタントの牧師や伝道師ですが、ともにこの祈りを祈ります。短い祈りです。しかしその食卓にイエスさまがともに着いておられることを学びます。

 教会で愛餐会を行なうならば、ともに祈って食事を始める、ということが出来れば幸いです。ただ人数が多いと、みなに食事が行き渡るのを待っていると食事が冷めてしまったり、うどんならば伸びてしまったりと、いろいろ不具合が出てきます。時間によって変化の少ない食物、たとえばサンドイッチとかおにぎりとか。あたたかいものが良い場合は、小さなテーブルごとに祈って食事をするとか。最初にともに祈ることが難しければ、せめて最後、あるいは頃合いを見計らって、ともに感謝の祈りをささげる時をもつとか。なにか工夫があればよいように思います。食卓は神さまとの交わりの時、神さまに感謝を捧げる時、さらにはそれ自体祈りなのです。