イエスは、悪魔の試みを受けるために、御霊に導かれて荒野に上って行かれた

静まりの時 マタイ4・1~11
日付:2024年02月12日(月)

1 それからイエスは、悪魔の試みを受けるために、御霊に導かれて荒野に上って行かれた。
2 そして四十日四十夜、断食をし、その後で空腹を覚えられた。

 バプテスマのヨハネから洗礼をお受けになられたイエスさまは、次に「悪魔の試み」を受けられました。

 イエスさまが洗礼を受けられたその時には 天が開け、神の御霊が鳩のようにご自分の上に降って来られるのをご覧になりました。そして、天からの声がありました。その声は、こう告げました。「これはわたしの愛する子。わたしはこれを喜ぶ。」

 イエスさまの宣教は、御霊に満たされ、神さまの愛の言葉に満たされて、その始まりの備えが成されたのです。それに続いて、悪魔の試みを受けられました。その後、バプテスマのヨハネの逮捕の知らせを合図としてイエスさまの宣教は開始されます(4・12~17)。

 御霊の満たし、神さまからの愛の言葉、そして悪魔の試み。この三つはまるでセットのようです。信仰生活の開始においても、その途上においても常にこの三つのことが備えられています。いずれか一つのことだけが迫ってくることは少ないように思います。御霊の満たしは、神さまからの愛の言葉を伴います。神さまの愛に満たされるところにも、悪魔の試みがあります。しかし悪魔の試みのあるところには、必ず、御霊がともにいて下さり、神さまからの愛の言葉が語られるのです。悪魔の試みは、神さまの愛に出会う時でもあるのです。

 イエスさまは悪魔の試みを受けるために、「御霊に導かれた」と聖書は語ります。悪魔の試みの時も、その道を導いておられるのは聖霊であり、神さまご自身です。
 荒野という言葉は、だれもいないところ、という意味を持っています。たった一人になるところで、悪魔の試みを受ける。誰からの助けもないという状況。しかしそれは神さまのみが助け手であるということが、鮮明になるところでもあります。
 孤独(ロンリネス)は、否定的な感じがしますが、同じ孤独でも「ソリチュード」には積極的な意味があります。少し長いのですが、以下にご自身うつを経験されたイシドロ・リバス司祭の言葉を引用します。

 日本語では「孤独」と一言で表わしていますが、英語には同じ「孤独」という言葉を少なくとも二つの言葉で表わします。ロンリネス(Loneliness)とソリチュード(Solitude)です。
 ロンリネスは前節の孤独感とつながると思います。自分には友達がいない、共鳴してくれる者がいない、交われる人がいない時の寂しい感じです。ただ I feel lonely と言えば、何となく寂しくて一人ぼっちでいることを表わしています。
 ソリチュードという言葉の意味はまったく違います。これは一人になるということを指します。たとえばグループの人間関係の中に流されて自分を意識していなかった自己不在の自分が、自分を意識して、自己に立ち戻って充実した自分を生きている時をさします。ソリチュードは、雑念・雑音の世界から離れて静かになって、本当の自分を感じ取り直すことを意味します。ですからソリチュードは、自己実現とつながっていますし、無限の広がりとも関係があります。私は単に団体の中の一個ではなくて、直接に無限と大自然と絶対永遠な世界とつながっていて、自分自身が主体的なもの、深いものであることを感じさせてくれる時間と状態を表わしています。一人でクラシック音楽を聞きながら、その美しい世界に浸る自分、一日の自分にあったことを思い浮かべながら自分の中の豊かさを意識していく自分、あるいは深い本を読んでいる自分、ただ瞑想にふけって黙想していく時の自分のことです。
 ロンリネスは寂しい感じにとどまりますが、ソリチュードは一人でありながら、かえって多くの深い喜びや静かな安らぎと安定感を与えてくれるものです。・・・」
 現代人の多くの不安と寂しさは、ソリチュードの時間がほとんどないところからくるのではないでしょうか。学生たちを見ていると、つくづくそう思います。いつもグループでしか動けず、一日中クラスの仲間とかクラブの仲間、あるいはマージャンの仲間とぶらぶら過ごし、自分がちっとも深まらなくて、いつの間にかむなしさに陥ってしまいます。ロンリネスに悩むから仲間を求めますが、しかし本当のロンリネスになるのは仲間がいないからではなく、心の底からの本当のコミュニケーションが足りないからです。いつも他人と共にいてソリチュードがないから、本当の自分を失って、本当の自分を分かち合うことができなくなってしまいます。一言で言えば、ロンリネスになるのは、ソリチュードが無いからです。
 このように、ロンリネスとソリチュードとは、同じ孤独でもその意味するところはたいへん違いますが、両者は無関係なのではなく、むしろ深い関係があるとも言えます。ロンリネスに陥って寂しくなる時に、もしそれをごまかさないで正面から見つめれば、多くの場合ソリチュードへのきっかけとなります。すなわち寂しい時に一人になって考えたり、本を読んだり、黙想したりして、深いソリチュードを味わうことができるようになります。
 ソリチュードのおかげで、自分のロンリネス、自分の寂しさの理由がわかり、自分のロンリネスを越えることができる場合がよくあります。また、ロンリネスは、交わりとソリチュードが足りないことを表わしています。本当は、ソリチュードが人間にとってたいへん必要なもので、ソリチュードの時間は孤独というよりもむしろコミュニケーションの時だと言ったほうが当たっているといえるでしょう。

イシドロ・リバス、『孤独を生きぬく』、講談社、1985年6月20日発行、120頁ff

 荒野で時間は、40日40夜の断食の日々となりました。40という数字は、聖書にさまざまな形で登場します。ノアの洪水にも40日40夜が登場します(創世記7章12節他。かつてイスラエルが荒野を旅した40年の「40」という数字を思い起こさせます。またモーセがシナイ山で十戒の石の板を授けられる時も40日40夜でした(出エジプト24章、申命記9章)。カナンの地の偵察隊も40日(民数記13章25節)、預言者エリヤがイゼベルから逃げた時も(第一列王記19章)、預言者ヨナも40日(ヨナ3章)を語りました。十字架ののち復活された主が弟子たちにご自身を現された日々の40日とも重なります(使徒1章3節)。
 以上からこの数字が単に日数を現しているのではなく、ひとつの完全数を現しているようです。イエスさまの悪魔の試みはひとつの「完全」を現している。何の完全を現しているのか。さまざまに想像されますが、試みというものについての完全、すなわち人間がその人生で受ける試みというものをここに完全に現わしている。そしてそれに答えられたイエスさまの答えの完全、そのお姿の完全を現している。そう考えることもできると思います。
 私たちがさまざまな試みに会う時、その試みもイエスさまは完全に理解しておられます。そして完全に対応してくださいます。

15 私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯しませんでしたが、すべての点において、私たちと同じように試みにあわれたのです。
16 ですから私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、折にかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。
(ヘブル4・15,16)

 イエスさまは、断食によって「空腹を覚えられ」ました。

 空腹を覚える。天と地を創造し今もそのすべてを御手の中にご支配されておられるお方が空腹を覚えられました。ここにあり得ないこと、一つの奇跡が起こっています。
 神さまが空腹を覚えられた。この奇跡に私たちは今生かされています。
 さらには空腹を覚えられたばかりでなく、私たちが満たされるためにご自身を食物として差し出し渡されてくださいました。

「取って食べなさい。これはわたしのからだです。」(マタイ26・26)

 今週水曜日はカトリック教会では「灰の水曜日」として祝いの日となっています。祝いといっても、イースターに向かっての断食の季節、40日40夜の季節に入ります。昨年の棕櫚の日の棕櫚を燃やした灰で、額に十字を記していただき始まる断食。大斎と小斎ではその方法に違いがあるようですが、私たちプロテスタントも、カーニバルなどで浮かれるのではなく、静まりの季節を迎えたいと思います。ロンリネスではなく、ソリチュードの季節を迎えたいと思います。

問いかけは、私たちが一人ぼっちであることを一人ぼっちの寂しさとするか、たった一人のかけがえのないものとするかなのです。一人ぼっちの悲しみ(ローンリネス)は苦しいものですが、たった一人(ソリチュード)というのは平安に満ちています。一人ぼっちの寂しさから、私たちは必死に他の人々にしがみついてしまいます。それに対して、たった一人のかけがえのない存在であるという認識は、他の人々をそれぞれ独自の存在として尊敬し、一つのコミュニティーを作り出します。
(ヘンリ J.M.ナウエン、『今日のパン、明日の糧―Bread for the Journey』より)