静まりの時 マタイ24・45~51
日付:2024年02月06日(火)
45 ですから、主人によってその家のしもべたちの上に任命され、食事時に彼らに食事を与える、忠実で賢いしもべとはいったいだれでしょう。
46 主人が帰って来たときに、そのようにしているのを見てもらえるしもべは幸いです。
47 まことに、あなたがたに言います。主人はその人に自分の全財産を任せるようになります。
(45-47)
直前の44節に「ですから、あなたがたも用心していなさい。人の子は思いがけない時に来るのです」と語られています。
人の子、すなわちイエスさまは、思いがけない時に来る、再臨するのだ、思いがけない時に来られたイエスさまが、私たちをご覧になる。イエスさまに見られた時、私たちは何をしているのか。
「そのようにしているのを見てもらえるしもべは幸いです」。
「幸い」。聖書全体もそうですが、マタイの福音書には「幸い」ということばがいくつも出てきます。思い起こすのは「心の貧しい者は幸いです」(マタイ5・3)だと思います。私たちは、だれしも幸いを求めているのではないか。どうすれば幸いに生きることが出来るのか。どのように生きれば幸いな人生となるのか。
再臨されたイエスさまに「そのようにしている」のを「見てもらえるしもべは幸いである」。
人生の幸いに生きようとするならば、思いがけない時に再臨されたイエスさまに「そのように見てもらえる」ような生き方をしている。それが幸いな人生である。
イエスさまが、いつどのような時であっても再臨されて大丈夫なような生き方。それが人生を幸いに導く、というのです。
では、再臨を信じて、どのようにしていることが、イエスさまに見られても大丈夫な生き方なのか。再臨に備える生き方とはどのような生き方なのか。
「主人によってその家のしもべたちの上に任命され、食事時に彼らに食事を与える、忠実で賢いしもべ」。
それが再臨に備える幸いな生き方です。
「主人によってその家のしもべたちの上に任命され」ること。イエスさまに任命されること。自分が為りたいといってなるのではない。イエスさまご自身が任命してくださる。イエスさまに任命されること。
人が任命されるには、選挙によるものであったり、話し合いによるものであったり、成り行き上仕方がなかったり、断り切れなかったり、とさまざまです。しかしそれらを一様に、イエスさまが任命してくださったと信じること。本人が信じること。そして教会が信じること。それがイエスさまに任命される、ということです。
また支配者としてではなく「しもべ」と任命されること。そして「しもべたちの上に」任命される「しもべ」であること。同じしもべ仲間の中から任命されたしもべであることを忘れないこと。
しもべですから、みな全員主人に仕える者です。しかしその中からことさらしもべとして任命されるのですから、しもべのなかのしもべです。だれよりも、身を低くする人、仕えようとする人です。
このしもべの役割は「食事時に彼らに食事を与える」ことです。給仕をする人。それがしもべです。
聖書の中に「役員」という言葉はありませんが、おそらく今日の役員のような働きは使徒の働き6章の「食卓に仕える」ために任命された人たちのことでしょう。ピリピ1章1節に登場する執事は、ギリシャ語で「ディアコノス」。これは仕える者という意味です。現代のプロテスタント教会でこれに該当するのは、役員というよりも、牧師に近いような気もします。
いすれにせよ、しもべとして同じしもべ仲間に食事を配っているような生き方、しもべとして人びとに仕える生き方、それが、いつ主が再臨されても大丈夫な生き方です。
聖餐式では、分餐を役員の方にお願いしています。それは給仕することが役員の大切な役割であり使命だからです。役員として任命されて一番大切な奉仕は、聖餐式の分餐だと思います。
聖餐式のたびに読まれる第一コリント11章には次の言葉があります。
「ですから、あなたがたは、このパンを食べ、杯を飲むたびに、主が来られるまで主の死を告げ知らせるのです。」(第一コリント11・26)
聖餐式において、パンと杯が分散され、それを食するたびに「主の死を告げ知らせる」。主の十字架の死を告げ知らせる。聖餐式においてしもべとして給仕する役員は、その奉仕によって、主の十字架の死を告げ知らせているのです。
しもべとして仕える姿は、主の十字架の愛を告げ知らせることである。それは本当に尊い奉仕だと思います。幸いな奉仕だと思います。聖餐式のときに、再臨があったならば、まさにその姿を主に見ていただけるのですが、普段の生活の中でも、しもべとして世界に仕える姿は、まことに幸いな生き方です。