静まりの時 ピリピ2・12~18
日付:2024年01月31日(水)
12 こういうわけですから、愛する者たち、あなたがたがいつも従順であったように、私がともにいるときだけでなく、私がいない今はなおさら従順になり、恐れおののいて自分の救いを達成するよう努めなさい。
13 神はみこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行わせてくださる方です。
(12-13)
神さまは、そのみこころのままに、私たちのうちに働いて下さり、私たちのうちに志を立てさせて下さり、事を行わせてくださる方です。
この13節はさまざまな場面で引用される聖句だと思います。教会の行事やいろいろな取り組みにおいて励ましをいただく言葉だと思います。しかし第一義的には、12節との結びつきの中で理解しなければなりません。共同訳2018で読んでみましょう。
「12 だから、私の愛する人たち、いつも従順であったように、私がいたときだけでなく、いない今はなおさら、恐れおののきつつ自分の救いを達成するように努めなさい。
13 あなたがたの内に働いて、御心のままに望ませ、行わせておられるのは神であるからです。」
(共同訳2018 フィリピ2・12,13)
神さまは、私たちの内に働いて、その御心のままに望ませ、行わせておられるお方である、だから、恐れおののきつつ自分の救いを達成するように努めよ、というのです。
そうすると、この、私たちの内に働いて私たちに望ませるものとはいったいなんであるのか。それは12節の「自分の救いの達成」であることが分かります。
イエスさまを信じて救われ神の子とされました。しかし自分のありのままの姿は、神の子というよりも、いまだ罪びと、罪の子、としか言いようのない状態です。信仰生活は、その罪の子としか言いようのない私が変えられていく道、12節の言葉で言えば、救いを達成する歩み。それが信仰生活なのです。
神さまがせっかく救ってくださったのだから、しっかりと神の子らしく自分の力で頑張っていこう、というのではありません。神の子らしく変えられて行こうとすることにおいて、神さまが、その御心のままに私たちの内に志を与えて下さる、そうして神さまご自身が私たちの救いを達成してくださる、そうパウロは語るのです。
そもそも神さまの子として成長していこうと願うこと自体が、そこに神さまがお働きになっておられることなのだよ、と聖書は語っているのです。だからその神さまが、必ずあなたの救いを達成してくださる、そのことを信じて、神さまに委ねて行こう。神さまが自らを変えて下さることに信頼していこう、と語るのです。
救いを達成する、神の子らしく成長していく。神さまがそのようにしてくださるのですから、私たちに必要なことはひたすら「従順」です。
どんな名医でも、その名医に従順でない患者は、病から快方に向かうことができません。ましてやその名医に隠れて自分なりの治療法に走ってしまっていれば治るものもなおらないでしょう。患者に必要なのは、その名医に全幅の信頼を置いて委ねること、従順であることです。
もちろん、これは人間の医師を例にしていることであって、この例にはちょっと限界があります。医師もいろいろおられますから。しかし私たちが信じた神さまは、名医中の名医なのですから、私たちが成すべき最善のことは、ひたすら委ねること、従順であることです。
「愛する者たち、あなたがたがいつも従順であったように、私がともにいるときだけでなく、私がいない今はなおさら従順になり」
ピリピの人たちは、パウロが一緒にいるときは従順であったが、パウロがいなくなると途端に従順でなくなってしまいそうであった、ということでしょうか。もしそういうことであれば、ピリピの人たちは、パウロに従順であっただけであって、神さまに対しては結局従順ではなかった、ということになります。
神さまに対して従順である、ということは、いったいどういくことでしょう。そこに誰がいるかいないかにかかわらず、ひたすら従順である。それは「恐れおののく」ということばと結びついています。神さまを恐れる、畏れる、ということです。
この言葉は、文字通りびくびくする、という意味ですが、信仰生活はそのようにいつもびくびくしているような歩みではないと思います。神さまを恐れる、ということは、人を恐れない、あるいは恐れなくても良いものをいたずらに恐怖しなくてもよい、ということです。まったき自由と解放がそこにあります。
この「私がいない今」という言葉を竹森先生は次のように解釈されていました。少し長いのですが引用します。
「ここに、『いない今』という言葉が書いてあります。これはただわたしがいない時、という意味とは違うのです。聖書では、このように『今』という言葉を使う時にはいつでも特別な意味をつけているからであります。それは過ぎ去ったことや、これからのことをあまり考えないで、今この現在を真剣に生き抜くことが大事であるとよく申しますが、それとは違うものです。ローマ人への手紙3章21節に、『しかし今や、神の義が、律法とは別に、しかも律法と預言者とによってあかしされて、現された』と書いてあります。ここにも『今』という言葉があるのですが、これは非常に大事なことです。それは、今までは律法が神の正しさを示すものと考えられていたが、しかし神の正しさというものが分かるには、キリストの福音によるほかはないということが今示され、ここに全く新しい生活が与えられたということを示して『今』と言っているのです。神の律法を行ないさえすれば救われると思っていたのが、神の律法はわれわれ罪ある人間には完全に行なうことができないので、神の赦しすなわち福音によって救われる時が来たということをいうその今ということなのです。したがって、そういう意味で今はというのは、神との関係が全く新しくなった今ということなのです。ですから、わたしのいない今と言っても、いる時でない今ということだけでなくて、いない時にもこの今ということをよく知っていなければならないということです。そういう意味での今というのは、神との間に生き生きとした新しい気持ちで神に接することができる時ということです。」
(竹森満佐一、『講解説教・ピリピ人への手紙 下』、日本基督教団出版局、1990年、16頁f)
パルロがいるときは従順で、いない時は従順でない、ということは、結局新しくなった「今」に生きていることにならない、ということでしょう。本当に新しくされた人は、神に対して従順であるのですから、だれがそこにいようがいまいが、恐れおののいて自らの救いを達成するように努めている人です。そしてそれを、戦々兢々としてではなく、神さまへの全き信頼の中で自由と喜びの中で生きている人です。
なぜなら、私の内に働いて、その御心のままに望みを与えて下さり、行わせてくださる神さまがともにいて下さるのですから。