私たちが神の子どもと呼ばれるために、御父がどんなにすばらしい愛を与えてくださったかを、考えなさい。

静まりの時 第一ヨハネ3・1~3
日付:2024年01月27日(土)

1 私たちが神の子どもと呼ばれるために、御父がどんなにすばらしい愛を与えてくださったかを、考えなさい。事実、私たちは神の子どもです。世が私たちを知らないのは、御父を知らないからです。
2 愛する者たち、私たちは今すでに神の子どもです。やがてどのようになるのか、まだ明らかにされていません。しかし、私たちは、キリストが現れたときに、キリストに似た者になることは知っています。キリストをありのままに見るからです。
3 キリストにこの望みを置いている者はみな、キリストが清い方であるように、自分を清くします。
(1-3)

 私たちは、イエスさまを信じたその瞬間から「すでに神の子ども」です。しかし信仰生活は、神の子どもと呼ばれるようになる歩みでもあります。神の子どもと呼ばれるようになる歩みの先は、どのようになるのか明らかにされていません。しかしキリストが現れてくださったときには、キリストに似た者となること、そのことを今知っています。なぜならその時には、キリストをありのままに見るからです。キリストにおいてこの望み、希望を持っている者は、みなキリストご自身が清いお方であるように、自分自身を清くします。

 人間はこの世に生まれたその瞬間に人間、ホモサピエンスです。しかし自分では何もできず、様々な世話をいただきながら、また教育と訓練を受けながら大人になっていきます。それと同じように、イエスさまを信じた時から神の子なのですが、それは信仰の大人になる歩みがスタートしたことでもあります。信仰生活は、信仰の成長をその目当てとしているのです。

 心身の成長は人によって様々であるように、信仰の成長も一様ではありません。人によって進み具合も段階も様々です。ですから人と比べる必要はありません。信仰の栄養を取って、適度に信仰の運動をしているならば、おのずと成長します。信仰の栄養と運動。それは、父なる神さまがどんなにすばらしい愛を与えて下さったかを、考えることです。

 信仰の成長というと、聖書的な知識をたくさん蓄えている、信じる力が増している、様々な奉仕を行うことが出来ている、などを想像するかもしれません。しかし聖書はそう言うことが信仰の成長であるとは単純には語りません。

 信仰の成長とは、キリストに似た者となることであると聖書は語ります。キリストに似た者となること、とは、キリストのように愛深いお方になることと想像しますが、そこには少し誤解が生まれる可能性があるように思います。私たち罪びとが、愛深い人、と想像するのはどのような方でしょうか。自分に対して優しくしてくれる人、自分の願いをなんでも聞き入れてくれる人、どこまでも身を粉にして自分に仕えてくれる人でしょうか。もしそういう人を、愛深い人、と考えているとすれば、それはまったくの誤解です。それは自分に都合の良い召使いであって、本当に愛深い人ではありません。
 私たち罪びとは、自分のからだに悪影響を及ぼすものさえも手に入れようとする欲望と願望にまみれているので、自分に都合の良い召使いのような人は、かえって自分を滅ぼす人でしょう。

 キリストに似た者となる、ということは、キリストが清いお方であるように、自分を清くすること、清い者となることです。清い者となる、ということが、真の愛の人になる、ということでもあります。
 清いとは、聖潔ということですが、その意味は、神さまのものとなる、ということです。イエスさまを信じて神の子となったということは、神さまのものとなったということです。しかし神さまのものとされたのにも関わらず、罪びとである私たちは、自分を自分のものとして歩んでしまいます。
 神の子となる、キリストに似た者となる、清い者となる。それは、自分の隅々まで神さまのものとなる、キリストのものとなるということです。

 自分のからだのすべてが神さまの御手の中にあること。自分の人生のすべてが神さまの御手の中にあること。自分にとって思いがけないことや受け入れがたいことにおいても、そこに神さまの御手があることを信じること。
 イエスさまに似た者となる、というのは、十字架の死にまでも父なる神さまの御手の中にあることを信じて進んでいかれたイエスさまのようになる、ということです。

 進み具合やその過程は人によって違います。しかし主にあるならば必ずキリストに似た者とされます。それを聖書は、望み、と言います。私たちの希望である、というのです。

 ヘンリ・ナウエンは、希望と願望の違いを語りました。願望は、自分が想定している将来像に自分を当てはめようとします。しかし希望は、その結果が開かれています。どのような自分にされるのかを知りません。知らないというのは、不確定である、という意味ではありません。キリストに似た者となることは、知っているのです。しかしそれが具体的にどのようなことであるのかを、決めつけません。プレゼントは明けるまでその中身を知らないからこそ、それを開けるまでの期待があります。そして開けた時に驚きと喜びがあふれます。どのような私に変えていただけるであろうか、と期待しながらの歩み。それが信仰生活です。

 いまはキリストをおぼろげながらに見ています。しかしその時はキリストをありのままに見ます。
 キリストをありのままに見る、ので、私たちは、キリストに似た者となるのです。見る、ということが、自らを変えます。いまはおぼろげながらではありますが、それでもキリストを見上げることによって、自らが変えられていきます。信仰生活は、いかにキリストを見るか、見上げるか、見ていくかの歩みでもあります。