静まりの時 第一テサロニケ1・2~6
日付:2024年01月18日(木)
2 私たちは、あなたがたのことを覚えて祈るとき、あなたがたすべてについて、いつも神に感謝しています。
3 私たちの父である神の御前に、あなたがたの信仰から出た働きと、愛から生まれた労苦、私たちの主イエス・キリストに対する望みに支えられた忍耐を、絶えず思い起こしているからです。
4 神に愛されている兄弟たち。私たちは、あなたがたが神に選ばれていることを知っています。
5 私たちの福音は、ことばだけでなく、力と聖霊と強い確信を伴って、あなたがたの間に届いたからです。あなたがたのところで、私たちがあなたがたのためにどのように行動していたかは、あなたがたが知っているとおりです。
6 あなたがたも、多くの苦難の中で、聖霊による喜びをもってみことばを受け入れ、私たちに、そして主に倣う者になりました。
テサロニケとは「マケドニヤのテルマ湾の北端に位置する海港で,港として絶好の地であった」と新聖書辞典(いのちのことば社)に書かれていました。このテルマ湾ですが、テルマ、というと私たちは知っています。そう「テルマエ・ロマエ」です。テルマは温泉という意味でこの港町には有数の温泉があったようです。エーゲ海に望むテサロニケ。行ってみたいですね。
テサロニケの教会は、パウロの宣教によって生み出されたようです(使徒17章)。パウロによる他の手紙には、パウロの自己紹介が大なり小なり書かれていますが、このテサロニケにはそれがありません。パウロとテサロニケ教会の信徒が如何に親しい関係であったかを想像します。
パウロは、テサロニケの信徒に向かって「私たちは、あなたがたのことを覚えて祈るとき、あなたがたすべてについて、いつも神に感謝しています」と書きました。手紙の冒頭でそのように書き始めたのです。
あなたがたのことを覚えて祈ろうとすると、まっさきに神さまへの感謝があふれてくるのだ、と。誰かの為に祈る時、まず神さまへの感謝があふれる、そんな祈りをささげたいと思います。また誰かに覚えて祈っていただくときに、そんな祈りがあふれ出すような信仰者になりたいと思います。
このパウロの感謝は、ただの社交辞令のようなものではありません。ちゃんと根拠があります。
「私たちの父である神の御前に、あなたがたの信仰から出た働きと、愛から生まれた労苦、私たちの主イエス・キリストに対する望みに支えられた忍耐を、絶えず思い起こしているからです。」
「信仰から出た働き」「愛から生まれた労苦」「私たちの主イエス・キリストに対する望みに支えられた忍耐」。この三つによって、パウロは神さまに感謝を捧げずにはいられなかったのです。
信仰から出た働き。ただ働きというのではありません。信仰から出た働きといいます。
おおよそ教会における働きは、信仰から出たものでなければなりません。しかし現実には信仰から出たものでない働きも起こってしまうものでしょう。信仰から出たものでない働き。人間的な、この世的な働き。あるいは神さまに御頼りしないでなされる働き、信仰がなくてもやってのけてしまえる働き。そういう働きは、神さまへの感謝を生み出すことがありません。人間は賞賛されるかもしれません。しかし神さまへの感謝を生み出すことがないのです。
愛から生まれた労苦。労苦にもいろいろあって、愛から生まれたものとそうでないものがある。労苦が、愛から生まれていないすれば、いったい何から生まれるのでしょう。
労苦を引き受ける。誰かの為に引き受ける。あるいは福音の前進のために、教会の前進のために労苦を引き受ける。そこには、愛があるはずです。愛ではない原理で労苦が成されるとは、いったいどのような事態でしょう。
テサロニケの信仰者たちは、ひたすら愛によって労苦に勤しみました。それがパウロたちに、神さまへの感謝を生み出しました。
私たちの主イエス・キリストに対する望みに支えられた忍耐。忍耐とは耐え忍ぶと書きますが、そこには希望があります。忍耐とよく似た言葉に、我慢、があります。我慢と忍耐とはどこが同じでどこが違うのか。いずれも耐え忍ぶということではありますが、忍耐には希望があります。一方我慢は、我を慢心させる、と書きますので(ちょっとこじつけですが)、自分のなにかの為にひたすら耐え忍ぶだけで、そこには希望がありません。臥薪嘗胆。三国干渉から日露戦争への道程にこの臥薪嘗胆の言葉が流行したそうですが、恨みつらみすらも熟成されていきます。
私たちの希望は、主イエスさまに対するものです。イエスさまを信じる信仰に生きる、ということは、この希望に生きる、ということです。田中剛二牧師は次のように語ります。
「『主イエス・キリストに対する望み』とは、今、よみがえって天にいます、主イエス・キリストを望みの対象とする望み、審判者としてふたたび来られるという約束にもとづいて再臨を待ち望む信仰のことです」(田中剛二、『第一テサロニケ書』、すぐ書房、1991年、48頁)。
「忍耐というのは、一般の世間でいわれるように、ただ歯を食いしばって苦しみが終わるまで辛抱する、じっとこらえるといった、消極的な受身的なことではありません。その忍耐は、望みにもとづき、望みから出てくる忍耐ですから、そこに、待ち望むという明るい期待と、勝利の確信という確実性の要素があります」(同、48頁)。
ただ待つのではなく、待ち望む生き方。主にある者は、みな待ち望みの生き方へと招かれています。
「楽天主義と希望は、根本的に異なった姿勢です。楽天主義は、天気や人間関係、政治経済などの物事がよくなることを期待します。希望とは、私たちに約束されたことを神が必ず成就してくださるということ、そうすることによって、私たちを真の自由に導いてくださると信頼していることです。楽天主義は、将来の具体的な変化について語ります。希望の人は、人生のすべてがよい御方(おんかた)のみ手の中にあると知り、かつ信頼してこの瞬間を生きます。」
(ヘンリ・ナウエン、『今日のパン、明日の糧』、聖公会出版、2001年、48頁)
ただ待つ人にとっては、その時間は無駄な時間です。しかし待ち望む人は、その時間を喜び楽しむことが出来ます。神様が与えて下さった時間ですから、一瞬たりとも無駄な時間はありません。効率がよいという意味ではありません。ボケーとしている時間も神さまとともに歩む楽しい時間なのです。
我慢している人をみて、神さまへの感謝はなかなか生まれません。しかしイエスさまへの希望の溢れて忍耐する人の姿は、周りに神さまへの感謝を生み出します。