大切なのは、植える者でも水を注ぐ者でもなく、成長させてくださる神です

静まりの時 第一コリント3・1~9
日付:2024年01月17日(水)

1 兄弟たち。私はあなたがたに、御霊に属する人に対するようには語ることができずに、肉に属する人、キリストにある幼子に対するように語りました。
2 私はあなたがたには乳を飲ませ、固い食物を与えませんでした。あなたがたには、まだ無理だったからです。実は、今でもまだ無理なのです。
3 あなたがたは、まだ肉の人だからです。あなたがたの間にはねたみや争いがあるのですから、あなたがたは肉の人であり、ただの人として歩んでいることにならないでしょうか。
4 ある人は「私はパウロにつく」と言い、別の人は「私はアポロに」と言っているのであれば、あなたがたは、ただの人ではありませんか。
(1-4)

 コリントの教会には問題がありました。それはなにもコリントの教会だけではありません。おおよそ手紙が書かれた、ということは、そこに手紙を書かなければならない事情、すなわち問題があったのです。新約聖書に書かれている教会宛ての手紙はすべてそれぞれに問題を抱えていた教会であると言えます。
 コリントの教会の問題とな一体なんであったのか。様々な問題がこのコリントの手紙には書かれていますが、真っ先にパウロが取り上げたのが「分派」でした。

「私の兄弟たち。実は、あなたがたの間に争いがあると、クロエの家の者から知らされました。あなたがたはそれぞれ、『私はパウロにつく』『私はアポロに』『私はケファに』『私はキリストに』と言っているとのことです。」(1・11,12)

 人間の命には限りがあるので、一つの教会がもし百年を越えて存続するということが想定されているならば、当然、そこに奉仕する牧師は一人ではありません。百年などと言わずとも、30年、40年で牧師はバトンタッチしていくことになるでしょう。そうであれば、そこに生きる信徒にとっては、牧会者は当然複数となります。
 コリントの教会においては、ケファ、すなわちペテロが奉仕したということは明確ではないと思いますが、パウロ、アポロ、という二人の人物の奉仕が深くかかわっていることが知られています。
 この二人は、それぞれ優秀な人物でした。しかしある意味で対照的な人物でした。対照的な人物でしたので、おのずと派閥が生まるということは想像に難くありません。ただこの派閥が分派を生んでいくと、その中で教会は確実に病んでいきます。伝統的な教会に赴任した友人たちの中にも、これでずいぶん苦しんでいる者がいます。自分が赴任したばっかりに、前任の牧師と深い人間的なつながりを持った人たちがごっそりと教会を出て行ったと悲しんでいた者もいました。どんなに傷ついただろうかとこちらも胸が痛くなりました。後任についたものは前任者の亡霊との闘いです、と言った牧師もいました。そういうことを耳にするので、教会をバトンタッチした後は、その教会には一切かかわらない、ということが大切であると想像できます。
 コリントの教会にあった「分派」の問題。そのようなコリントの信徒のことをパウロは「固い食物」を食べることのできない「肉に属する人、キリストにある幼子」であると言います。

 この分派の問題は、おのずと「あなたがたの間にはねたみや争いがあるのです」と言われるような状態を生み出しました。分派が生まれる、というところには、人間のねたみや争いが生まれるのです。分派のある教会はすでに病んでいるのです。

 まっすぐに神さまだけを見上げて、神さまだけを礼拝することを、教会は力強く語っているにもかかわらず、そこに人間を礼拝するかのような状況が生まれてしまう。
 パウロもアポロも優秀な人物だったと思いますが、十字架に架かってくれたわけではありません。人間である限り罪びとです。ですからおそらくパウロやアポロがコリントの教会に仕えていたときには、一人の牧会者としての領分を越えるような見方はなされていなかったと思います。しかしいざ目の前からいなくなり、代わりにやって来た者に、小さな不満を見つけると、ああ、前の先生はああだった、こうだった、よかった、と言うのです。それは、前の先生がよかったというよりも、今の先生に対する不満を語っているだけなのだと思います。
 人間は目の前の人物に対しては否定的になりがちである、と誰かから聞いたことがありました。なぜ目の前の人物を否定したくなるのか。私とあなたという関係の中で、自分の優位性を確かめたくなる時に、手っ取り早いのが、目の前の人物を見下すということでしょう。結局、分派の根底には、人間の罪、自己中心性が潜んでいる、すでにねやみ、そして争いがその根底にあるのではないか。

 これは、単に教会の人間関係論を語っているのではありません。神さまを信じるところで、人間の罪の問題が後回しにされている、罪が深く悔い改められていない、それが問題なのだと思います。神さまを信じることと、自らの罪を悔い改めるということは、セットですから、もし罪を悔い改めるということがなく、神さまを信じたと言っているならば、その神さまを信じたということは、聖書の語る信仰とは似て非なるものです。

5 アポロとは何なのでしょう。パウロとは何なのでしょう。あなたがたが信じるために用いられた奉仕者であって、主がそれぞれに与えられたとおりのことをしたのです。
6 私が植えて、アポロが水を注ぎました。しかし、成長させたのは神です。
7 ですから、大切なのは、植える者でも水を注ぐ者でもなく、成長させてくださる神です。
8 植える者と水を注ぐ者は一つとなって働き、それぞれ自分の労苦に応じて自分の報酬を受けるのです。
9 私たちは神のために働く同労者であり、あなたがたは神の畑、神の建物です。

 教会の奉仕者は、それぞれが神さまから与えられた分をつくしただけである。まるで神のようにあがめるのはよそう。彼らも、それぞれ自分の労苦に応じて報いを受けている、あるいは受けるであろう、賞賛を傾けて今人間からの報いを与えることはいかがなものだろう、ということでしょう。

 これは、奉仕者にとっても大切なことです。自分の奉仕は、教会と言うキリストの体の一部分を担っているに過ぎない、ということをわきまえるのです。

 少し話がずれるかもしれませんが、教会に悩みや問題をもってやってくる人に牧師はどう対応するのか。30年以上前、牧師となったときには、持ち込まれる問題をすべて解決しなければならないような気持、あるいは気負いがあったように思います。
 悩みや問題を持った方の根本的な問題は、その人が神さまに祈れなくなっている、ということです。神さまが見えなくなっているのです。
 そのような方に、もし牧師が鮮やかに問題を解決してしまったら、問題を解決してくれた牧師が偉大な存在となり、以前にもまして神さまが見えなくなってしまいます。ですから、もちろん問題を解決するように努力することは大切なことですが、それ以上に大切なこと、牧師でなければできないこと、それは、その問題を抱えて祈れなくなっている人を祈れるようにしてあげること。神様が見えなくなっている人のまえに、神さまを紹介することです。そのためにはなすべきことは、まず自分がその人の目の前からどかなければなりません。そうして、一緒に神さまの方を向くのです。向き合うのではなく一緒に神さまのほうを向くのです。

 人間はほめられるとうれしいものです。しかしどこまでも罪びとですので、そこには大きな落とし穴があります。奉仕が誰かからの称賛を得るための奉仕となり、ほめられるとうれしいけれど、ほめられないとがっかりするといったジェットコースターのような奉仕者生活となります。平安がありません。
 自分はほんのひと時の教会の歴史に携わっただけである。ほんの一頁の一行だけに登場する者である、ということをわきまえていたいと思います。後任の先生のためにも、跡形もなくなることを大切にしたいと願っています。20年奉仕させていただいた前任の教会を去るときは、ずいぶん引き止められ悲しまれましたが、いま後任の先生を中心に麗しく平安の中に宣教が前進ている教会の姿を見るごとに神さまに感謝しています。「あれ、前いはった先生ってだれやったっけ」ということであってほしいと願っています。