静まりの時 マタイ5・13~16
日付:2024年01月09日(火)
13 あなたがたは地の塩です。もし塩が塩気をなくしたら、何によって塩気をつけるのでしょうか。もう何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけです。
14 あなたがたは世の光です。山の上にある町は隠れることができません。
15 また、明かりをともして升の下に置いたりはしません。燭台の上に置きます。そうすれば、家にいるすべての人を照らします。
16 このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせなさい。人々があなたがたの良い行いを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようになるためです。
(13-16)
山上の説教は、
「イエスの評判はシリア全域に広まった。それで人々は様々な病や痛みに苦しむ人、悪霊につかれた人、てんかんの人、中風の人など病人たちをみな、みもとに連れて来た。イエスは彼らを癒やされた。こうして大勢の群衆が、ガリラヤ、デカポリス、エルサレム、ユダヤ、およびヨルダンの川向こうから来て、イエスに従った。
その群衆を見て、イエスは山に登られた。そして腰を下ろされると、みもとに弟子たちが来た。そこでイエスは口を開き、彼らに教え始められた」(マタイ4・24,25、5・1,2)
とあるように、主イエスさまの癒やしの御業を見てイエスさまに従うようになった群衆をご覧になれたイエスさまが、まるでその群衆から距離を取られるかのように山に登られ、イエスさまが登られた山にまでやって来た弟子たちに向かって語られた言葉です。
それは、一般的に宗教の教えを語らえたのでも、倫理道徳を説かれたのでもなく、ことさらイエスさまに従ってくる「弟子」に向かって語られた言葉です。
イエスさまに従ってくる者は、どのように歩むべきであるのか、を語られた。あるいはイエスさまに従ってくるならば、どのような素晴らしい生き方が与えられるのか、が語られたのです。
今朝の言葉も、イエスさまに従ってくる、ということが前提とされています。
イエスさまの弟子であるならば、それは地の塩であり世の光である。イエスさまはそう言われました。地の塩、世の光となるならば、わたしの弟子となれる、免許皆伝だ、と言われたのではありません。イエスさまを信じた時、そうしてイエスさまに従おうとした時、その時から、誰一人漏れることなく、地の塩、世の光なのです。
すでに地の塩、世の光とされているので、地の塩、世の光として歩んで行くことは、ごく自然なことです。自然なことなので、そこには自由と喜びがあります。
塩は、防腐剤でありまた味付けです。キリスト者は、この世を、暗闇の腐敗から守り、この世がステキなところであり続けるために味付けをします。塩気をなくした塩というものを見たことがありませんが、もし塩気をなくした塩があるとすれば、何の役にも立たないばかりか、血圧を上げるだけの有害なものになってしまいます。
塩は自らの姿を、溶け込ませ、そうして消してしまうことにより、その力を発揮します。塩気が主張しすぎると、料理をダメにしてしまいます。そこはかとなく、その存在の尊さが効いてくる。そんな存在です。
光。暖房に使用することが多くなった灯油は、もともとは「灯油」というくらいですから、灯りのための油でした。酸素が不十分だと、すすばかりが出て厄介なのですが、うまく燃焼させれば、灯りとして、暖かで心和む光をあたりに与えていきます。光を手にしようとしても、それは灯心や、それを入れる容器、などを手にすることであって、光そのものを手の中に入れることはできません。
光の存在は、その光に照らし出されたものによって知ることが出来ます。光は、それを手中におさめることではなく、その光に包み込まれて初めて自分のものとすることができます。
キリスト者は世を照らす者として世に遣わされています。世の罪を照射するという意味もあるかもしれませんが、それ以上に、この世を温かく包み込む、ということもあるのではないか。
光としてこの世に遣わされる、ということは、この世にあって、良い行い、をすることである、とイエスさまは言われました。良い行いとは何か。
「17 わたしが律法や預言者を廃棄するために来た、と思ってはなりません。廃棄するためではなく成就するために来たのです。
18 まことに、あなたがたに言います。天地が消え去るまで、律法の一点一画も決して消え去ることはありません。すべてが実現します。
19 ですから、これらの戒めの最も小さいものを一つでも破り、また破るように人々に教える者は、天の御国で最も小さい者と呼ばれます。しかし、それを行い、また行うように教える者は天の御国で偉大な者と呼ばれます。
20 わたしはあなたがたに言います。あなたがたの義が、律法学者やパリサイ人の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の御国に入れません。」
(17-20)
聖書を廃棄するためではなく、成就するため。それがイエスさまがこの地に来られた目的である。キリスト者が成すべき良い行いとは、聖書の言葉を成就することである、と言われました。
しかし重ねて、あなたがたの義、すなわち聖書の言葉を成就することの正しさが、律法学者やパリサイ人のそれにまさるものでなければならない、と言われました。
キリスト者は聖書の言葉に生きるのです。しかしそれが、律法学者やパリサイ人のようであってはならない。キリスト者となってもなお律法学者やパリサイ人のように聖書の言葉を守ろうとすることが起こる危険性がある、ということでしょう。
律法学者やパリサイ人とは違う聖書の言葉の守り方、彼らにまさる聖書の言葉に生きる生き方。それはいったいどういうものであるのか。
「人々があなたがたの良い行いを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようになるため」。
律法学者やパリサイ人にまさる良い行いとは、それが、天におられる父なる神さまがあがめられることに結び付いている、ということ、だと思います。
逆に、良い行いをしている人間があがめられることになっているとすれば、それは律法学者やパリサイ人の義と同じである、ということでしょう。
しかし、一般的に良い行いをすれば、その人を賞賛するのは自然なことだと思います。いくら神さまをあがめましょう、と言っても、なかなかそうはなりません。良い行いを見ても賞賛しない、知らんぷりをしている、ということもまた寂しいことですし、罪びとである人間の世界では、そこに不満が生まれることでしょう。
この山上の説教の中に次のような言葉があります。
「あなたが施しをするときは、右の手がしていることを左の手に知られないようにしなさい。」(6・3)
右の手が良い行いをしたとき、それを左の手に知られないようにせよ、という何とも無茶な言葉があります。比喩的に理解すればよいのかもしれません。しかしそのまま読むならば、これは生物学的に不可能なことです。右の手も左の手も、その人の脳がコントロールしているのですから。
しかしそれでも、左の手に知られないようにするとすれば、それをコントロールしている脳自体が、忘れてしまう、ということをすればよいのではないか。
これももちろん難しいことですが、そういうシステムを作ればよいと思います。自分の行為を、できるだけ忘却しやすいようにしておく。あるいは自分だけがやった、ということが明確にならないようにしておく。これは決して責任所在を不明確にするということではありません。
日曜日の夜にNHKで放映されていた「DOC2」が、この前の日曜日で最終回を迎えました。毎回、感動させてくれた番組でした。私は夜更かしが出来ないので、ビデオに録画して観てました。ある病院の医師たちの人間ドラマです。イタリアの制作だったと思います。
医療の現場で、その医師の判断は、命を左右する重大なものです。彼らは、何度も話し合いをします。そして責任所在を確かめます。年齢や性別にかかわらず、それぞれに託されている立場、責任、リーダーシップを大切にします。その上で判断をし、医療活動を行います。それでも自分の判断に悩み苦しみます。
一つの問題をめぐって、その責任が追及され、主人公が解雇されようとします。しかし仲間の全員が、その責任を自分のものとして、解雇しようとする悪代官のような人物(今回第二シーズンの悪役ですが)に、相対していきます。
ある医師の決断によって患者が快方に向かったとき。一人の医師が、その提案をしたのは、何々先生よ、というと、それに対して、いえ、それを決断したのは、何々先生です、と答える。そして、この内科の仲間全員が、そのために労したのだとの言葉が交わされる。
人間は、良いことをしたいと願っても、それが果たして良いことであるのかを知りません。その逆もしかりです。それらがすべて個人プレーで行われることであれば、上手くいけば、その人間が賞賛される。そうでなければ責任が追及される。それは大変なことです。まさに律法学者、パリサイ人の義の世界です。
それにまさる義をどのように実現するのか。
「26 一つの部分が苦しめば、すべての部分がともに苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分がともに喜ぶのです。
27 あなたがたはキリストのからだであって、一人ひとりはその部分です。」
(コリント第一12・26,27)
鍵は、教会、だと思います。律法学者、パリサイ人にまさる義に生きるためには、教会はなくてはならないものなのです。
私が為そうとする、善い行い、は、決して私の個人プレーではない、教会につながる一つの肢体、器官として、なされる。そのために、組織は重要です。自由に話し合いができる場が大切です。仲間といっても世かもしれません。一人の意見を、仲間全体の意見とする場。そこでこそ、右の手の業を左の手に業に知らせす、神さまのみをあがめることが可能となるのだと思います。
「23 教会はキリストのからだであり、すべてのものをすべてのもので満たす方が満ちておられるところです。」(エペソ1・23)
教会を抜きにして、地の塩、世の光として遣わされるキリスト者の信仰は成り立たないのです。