ヘロデは、博士たちに欺かれたことが分かると激しく怒った

静まりの時 マタイ2・13~18
日付:2023年12月26日(火)

ヘロデは、博士たちに欺かれたことが分かると激しく怒った。そして人を遣わし、博士たちから詳しく聞いていた時期に基づいて、ベツレヘムとその周辺一帯の二歳以下の男の子をみな殺させた。(16)

 暗闇のこの世に、主の栄光が照り輝きました。この世が暗ければ暗いほど、その輝きは温かく、また力強く輝きます。
 この世の暗闇、その暗さとはいったい何か。それは愛のない暗さです。本来愛に生きるようにと創造された私たちが愛に生きることが出来ない。それがこの世の暗さです。
 愛の暗さ、とはいったい何か。救い主の誕生の時、王ヘロデの行なった虐殺においてその暗さは一つの頂点を迎えます。
 住民登録の命令のもと宿屋のないマリアとヨセフ、そして救い主。そこにも暗闇があります。多くの人びとが寝静まるときも夜通し羊の番をしていた羊飼いを取り巻く暗闇。星に導かれて救い主を探し求める東方の博士たちが経験していた暗闇。いろいろな暗闇が聖書には記されていますが、このヘロデのやったことほど、人間の罪を見せつけられる暗闇はないでしょう。

 ヘロデは博士たちに欺かれた、だまされたことを知ると激しく怒りました。だまされて嬉しい人はいません。誰でもだまされると怒ることでしょう。
 しかしそもそも欺いていたのはヘロデの方でした(2・8)。自分が欺ていていたということをわきまえていたならば、ここまで怒ることはなかったのではないか。二歳以下の男子を皆殺しにするなどという類を見ない恐ろしい所業に出ることはなかったのではないか。ああ、やっぱり見透かされていたか。仕方がないな。ということになぜならなかったのか。
 ある心理学者は、怒りも選択によるものであるといいました。自分ではどうすることもない怒り、というのではなく、怒ることを選択しているのだ、というのです。確かに、何かに怒っている時に、電話がかかっていても、怒りのままに電話に出る人はいません。今まで怒っていても、電話に出た途端、あ~ら久しぶり、などと言って、声まで変わって今います。つまりコントロールしているのです。
 ではコントロールできないかに見える怒りが一体どこから出ているのか。何のために出ているのか。実は原因に問題があるのではなく、その目的に問題がある。怒りを道具にして、自分が成そうとしていることのエネルギーにしている、あるいは怒りによって目的を果たそうとしている、とその心理学者はいっていました。怒りが生まれた時に、怒らせた誰かに責任がある。私が怒るのは当然のことだ、というのには嘘があるのです。怒りというのは、誰かの所業によって仕方なしに生まれていることではなく、自覚しているかどうかは別として、かなり自律的、戦略的に自分が起こしていることである、ということでしょう。

 博士たちが救い主の誕生を問いに王宮にやって来たとき、ヘロデ王は動揺した、と聖書にあります。この時ヘロデだけではなく、エルサレム中の人びとも同じであった、と書かれています。
 国が動揺する、ということを前に、その責任と権力を持っている王としては、何かの方策をしなければならない、ということであったのか。今日も、世界の様々な国で、自国の平和を守ろうとする為政者たちが、その疑心暗鬼の中で、戦いの備えをし続けているところにも、同じ心があるのかもしれません。
 王としての権力欲が、このような虐殺を生み出したのか。日本の戦国時代の武将たちの中にも、周りの者を殺していく人たちはいました。邪魔者は消せ、のように、気に入らない者、自分の我欲を満足させるために邪魔になる者を、自分の世界から追い出そうとすることは、さまざまな形で今日も起こっていることかもしれません。
 王の命令とはいえ、二歳以下の男子を殺戮するということをやってのけた兵士たちは、どのような気持ちだったでしょう。決して極悪非道の兵士たちだったわけではないでしょう。家に変えればよい夫でありお父さんだったかもしれません。ナチスの行なった蛮行も、普通の兵士、あるいは役人のやったことでした。組織の歯車として、猛烈な出世主義のなか、自分の責任さえ果たせばよい、と教え込まれた普通の人のやったことだったのです。
 ここにクリスマスの暗闇があります。この暗さには底がありません。人間中心、自分中心、愛の無さ、自分の所業を顧みない自分勝手さ、などなど、私たちの心に巣くう罪の暗さです。まことの神であるイエスさまご自身のいのちによってしか、贖うことの不可能な罪の暗さです。

 ヘロデによるこの暗闇の出来事も、聖書は預言の成就であった、と語ります。

そのとき、預言者エレミヤを通して語られたことが成就した。
「ラマで声が聞こえる。むせび泣きと嘆きが。ラケルが泣いている。その子らのゆえに。慰めを拒んでいる。子らがもういないからだ。」
(17,18)

 慰めを拒むほどの嘆き。それも預言の成就である、というのはにわかには受け入れがたいことです。しかし、この恐ろしい出来事も、決して神さまがコントロール不能になって起こってしまったことではない、と語っているのでしょう。神さまの御手から離れてしまったことではない。この事態の中でも、神さまは、神さまであること、全能者であることをお止めにはなっておられない。むしろその全能のすべてをかけて神であり続けておられる。それは、神さまご自身が、忍耐の限りを尽くして支えておられる、ということなのです。ここに十字架の愛が豊かに現れています。

 私たちの暗闇に、神さまはご自身のご栄光を照らしてくださいました。その栄光は十字架の栄光です。十字架にこそ希望の光が輝いています。神さまは、ご自身のいのちを与えてまでも、私たちをその暗闇から救い出したい、光の中を生かしたいと願われたのです。

 クリスマスをお祝いするごとに、おびただしい数の2歳以下の男子のいのちが為政者によって殺されたこと、かわいい盛りの子どもを失った悲しみの中に絶望した人たちのことを、私たちは忘れてはならないと思います。