しかしマリアは、これらのことをすべて心に納めて、思いを巡らしていた

静まりの時 ルカ2・15~20
日付:2023年12月25日(月)

15 御使いたちが彼らから離れて天に帰ったとき、羊飼いたちは話し合った。「さあ、ベツレヘムまで行って、主が私たちに知らせてくださったこの出来事を見届けて来よう。」
16 そして急いで行って、マリアとヨセフと、飼葉桶に寝ているみどりごを捜し当てた。
17 それを目にして羊飼いたちは、この幼子について自分たちに告げられたことを知らせた。
18 聞いた人たちはみな、羊飼いたちが話したことに驚いた。
19 しかしマリアは、これらのことをすべて心に納めて、思いを巡らしていた。
20 羊飼いたちは、見聞きしたことがすべて御使いの話のとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った。
(15-20)

 羊飼いたちは、いつものように牧羊の仕事に従事していました。そのとき主の使いが来て、救い主の誕生の知らせを受けました。日常の中にこそ、私たちの主は来られます。
 主の言葉が語られ、主への賛美が献げらえ、それらが止むと、彼らは互いに言いました。さあ、ベツレヘムへ行こう。主が私たちに知らせてくださったこの出来事を見届けて来よう。
 なん十頭、あるいは何百頭いたかもしれない羊たちを引き連れて彼らの旅は始まりました。その労苦を想像すると気が遠くなることですが、彼らはいといません。喜びの予感が彼らの全身を駆け巡っていたからです。喜びに満たされる、というのは、そういうことです。主の日の礼拝にはそのような心で私たちも備えたいものです。
 急いで行った彼らの旅の終着点は、マリアとヨセフ、そして飼い葉桶に寝ているみどりごです。彼らは捜し当てました。捜し当てること自体に神さまの奇跡を見ます。福音を知らせてくださった神さまは、イエスさまにお出会いできる道を整えてくださいます。
 マリアとヨセフ、飼い葉桶のイエスさまを目にした彼らは、イエスさまについて自分たちに告げられたことを知らせました。聖書は、イエスさまについて、とは書かず、幼子について自分たちに知らされたこと、と強調します。大人でなく、すなわち力があり知恵に富む存在ではなく、「幼子」のなかにこそ、福音は満ちあふれています。
 幼子について自分たちに知らされたこと。その福音を羊飼いたちは、知らせました。羊飼いは、最初の宣教師となりました。おおよそ宣教とは、自分に告げられた福音を、喜びと驚きをもって告げる者です。私たちも、幼子、を語る者でありたいと思います。

 羊飼いたちは、見聞きしたことがすべて御使いの話のとおりだったので、神さまをあがめ、賛美しながら、再び自分たちの職務に戻って行きました。
 神さまをあがめつつ、賛美しながら、出発する。主の日から始まる一週間への旅も、私たちは神さまをあがめ、賛美しながら出発します。

「聞いた人たちはみな、羊飼いたちが話したことに驚いた。」(18)

 羊飼いたちの話したことを聞いた人たち、とは、いったい誰のことか。ここには、マリアとヨセフ、飼い葉桶のイエスさまの3人だけがいたのではないか。
 私たちも広い意味では、クリスマスの出来事は羊飼いからの告げ知らせたことを、伝え聞いた者なのだと思います。そしてこの出来事は今も全世界に告げられています。驚きの波紋は広がり続けています。神さまが人となれたこと。私たちはこの出来事にもっと驚かなければなりません。

「しかしマリアは、これらのことをすべて心に納めて、思いを巡らしていた。」(19)

 聖書の中にしばしば記される「しかし」という言葉。原文では「デ」という、デルタとイプシロンの二つのアルファベットから成る単語です。多くの場合、前に続く文意に対して反対の主張、対照的な言葉が続きます。多くの人びとが驚くなかにあって、マリアだけは「すべて心におさめて、思いを巡らしていた」のです。
 良い意味でも悪い意味でも、私たちは驚きます。その中にあって、ひとり、すべて心におさめる人、またそうして、思い巡らす人、それがマリアだったのです。ここにマリアがマリアたるゆえんがあります。

 すでに自らの胎に宿った存在が、普通ではない、ことが知らされています。さらにこれから起こるであろうことごとが、普通ではない、あるいは尋常ではないことが予感されています。そのような中に立たされた人間は、いったいどう生きることができるのでしょう。

 「思い巡らす」と訳されている言葉は、スンバロー、というギリシャ語です。辞書には「語り合う、相談する、熟考する」とありました。単語の成り立ちとしては、スン、というのが、一緒に、という意味で、バロー、というのは、投げる、という意味をもつ言葉です。(近所のスーパーのことではありません)。
 私たちに日々起こる出来事、もたらされる情報、すべてはばらばらに投げ込まれたようなものに見えるかもしれません。しかしそれらを、一緒に見ていく。いっしょくたにする、ということではありません。一つひとつのことを、自らの手から離して、神さまの前に置き、その全体像を眺めていく。なんの脈絡もないものが、それぞれに結び合いながら、いまの自分にとって、意味を持つものと立ち上がってくる。意味もないどころか、むしろなければよかったような否定的な出来事も、いまの自分にとって、とても意味のある大切なことだった、と気づき始めます。
 そうして一つひとつのことを、大切に、受け止めていく。思い巡らす、とはそういうことです。

 先ほど、羊飼いたちが最初の宣教師だったのではないか、などと書きましたが、おそらく出産に至る経緯、ヨセフとマリアに起こったこと。それにまつわっての、ザカリヤ、エリサベツのこと、ベツレヘムへの旅、居場所のない中での出産、などなど、それは、マリアしか知り得ないことだったでしょう。やはりそれらを伝えることが出来たのは、このマリア自身だったのだと思います。そうすると、最初の宣教師は、マリアさん、というべきかもしれません。
 マリアの語る言葉。それはこの思い巡らし、黙想、または観想と言ってもよいと思いますが、ここから出ているのだと思います。

「観想的な姿勢では、ジャッジメント(価値判断、さばき、決めつけ)なしに、物事をあるがままに観ます。そこで起こっていること、そこにあるものを、良し悪しの判断を抜きに、まずそのままで受け取ります。そしてそこにおられるイエスを探し、見つめ、その状況の中で語りかけれおられるイエスの御声に耳を澄ませます(それは往々にして、「かすかな細い声」〔1列王19・12〕でしょう)。そして、そこに注がれているイエスの愛のまなざしを受け取ります。」
(中村佐知、『魂をもてなす』、あめんどう、2021、73頁)

 思い巡らしのない言葉は、言葉ではなく「反応」です。猫のしっぽを踏むとギャーというようなものです。人間でなくてもおおよそすべての被造物はやっています。
 反応ももちろん大切ですが、敏感過ぎるというか、すぐに反応が返ってきてあそびがないというのは困ったものです。自動車のハンドルもあそびがないと運転がしづらいものですし・・・。
 メールが来てもラインが来ても、反応は返されるかもしれませんが、はたして言葉が語られているのか。昔は、手紙を出しても届くのに時間がかかり、また幾度も読み返しつつ返事を手で書き、目で見て、読み返しつつ、ようやく封筒に入れ、切手を貼って投函する、という手順がありましたので、思い巡らしやすいことだったと思います。電話の発明以降、情報の事情は変わりました。昨今ますます思い巡らしの難しい時代となりました。

 思い巡らしによって生まれる説教、思い巡らしの中から生まれる祈り、思い巡らしの中から語られる隣人への言葉。それらを獲得することこそ、信仰生活の豊かさなのだと思いました。