すべての造られたものより先に生まれた方

静まりの時 コロサイ1・9~20
日付:2023年12月22日(金)

「御子は、見えない神のかたちであり、すべての造られたものより先に生まれた方です。」(15)

 主にある者は、父なる神さまによって、暗闇の力から救い出されました。そうして愛する御子イエスさまのご支配の中に移してくださいました。
 救われる、ということは、この「御子イエスさまのご支配の中に移して」いただいた、ということです。
 それまで私たちは「暗闇の力」の支配の中にありました。

 暗闇の力、とはいったい何であったのか。このコロサイ人への手紙には次のような言葉があります。

「もしあなたがたがキリストとともに死んで、この世のもろもろの霊から離れたのなら、どうして、まだこの世に生きているかのように、『つかむな、味わうな、さわるな』といった定めに縛られるのですか。」(20,21)

 「つかむな、味わうな、さわるな」といった定めに縛られた生き方。それが「まだこの世に生きているか」のような生き方であり、今朝の個所の「暗闇の力」の支配の中にあったことなのです。

 人間は生まれながらに律法主義者である、とある先生が説教集の中で語っておられました。おおよそ宗教に入ると、なにか戒律や戒めといったものに縛られる不自由な生き方、律法主義的な生き方となる、と思われがちですが、人間はもともと、律法主義者なのです。
 律法主義とは、結局自分のこだわりや執着に生きていることです。私の好み、私の考え、私の文化、私の経験、というものが、常に中心にある、という生き方です。宗教や信仰におけるこのような生き方は、誰よりも自分自身に生きづらさを生みます。また他者と共に生きることを難しくさせてしまいます。
 聖書が語る信仰は、このような「自己中心性」から解放され、神さまを中心として生きることです。そうしてともに生きる人びととも幸せに生きることです。

 自分自身から解放され神さまを中心とすることで生み出される幸せ。これは、神さまが「絶対他者」であることを前提としています。
 おおよそ聖書の語る「偶像」は、絶対他者ではありません。どこか自分の願望がうつし出されたものです。偶像を礼拝する、ということは、結局、自分自身を礼拝していることなのです。

 「つかむな、味わうな、さわるな」といった定めに縛られた生き方は、結局自分自身のこだわり、執着を満足させる生き方であり、それ自体偶像礼拝なのだと思います。

 救われた、ということは、自分自身から解放されて「御子イエスさまのご支配の中に移して」頂いたのですから、そのことをいつも喜びとして生きて生きたいと思います。

 私たちを支配していてくださる御子イエスさまは「見えない神のかたち」です。神さまというご存在を完全に明らかにしておられるお方です。そして「すべての造られたものより先に生まれた方」です。

 二千年前にユダヤのベツレヘムでお生まれになられた方が、すべての造られたものより先に生まれた方であるということ。「生まれた」という言葉が、単純に出産のことを語っているのではないようです。イエスさまは、まことの神ご自身であり、創造者です。そのイエスさまが母マリアの子として、この地に降って来てくださったということ。それが、すべてに先立つ出来事であったということ。すべてのものは、この降誕、あるいは受肉、において成り立っている、ということ。

 すべての造られたものを見て、そこに神の受肉の愛を見る。受肉の焦点は、十字架と復活です。十字架と復活は、平和と和解です。すべての被造物に、平和と和解を見る。それがまた、御子イエスさまのご支配の中に移された者の生き方なのだと思います。